ものを教えることは難しい

ものを教えることは難しい

 だいたい、私のような三流で責任感のかけらもない人間に、人にものを教えるという、これからの人間を養成するような仕事ができるわけがない。なぜなら、ものを教えるということは、教えたものに対する責任を取るということだからだ。
たとえば、あやふやな知識を教えてしまって、そのままテストで書いて、それが間違い印のペケをくらう。これは嘘を教えた人間の責任で、決してその人間の責任ではない。教えたものにペケをつけるべきことなのだ。

 だが、この程度のことならば、まだよい。なぜなら、それはそのとき直せばいいからだ。しかし、思想などを教え込んでしまうと、それは一生かかっても直せなくなるかもしれない。教え込んだ思想がねじれ込んだものであったならば、それは教わった人間の人生をソフトクリームの先頭のようにねじ曲げていくことになるであろう。はて、そうしてねじ曲がってしまった思想の責任を、我々ものを教えるものたちが責任を軽々しくとることができるであろうか。おそらく、そんなことはできまい。

 だからといって、ものを教えないわけにはいかない。それは文明の通達という人間の役目の歯車を壊してしまうことになるからだ。では、どうすればいいのか。大事なことは、思想を教えないとか、ものを教えないということではなく、ものを教えるという行為を通してみせる我々ものを教える側の態度である。態度で、ものを教えるのである、思想を悟らせるのである。日本人の特長の一つに教えづらいことは口で言わずに、態度に示すという習慣がある。これを利用しないわけにはいくまい。態度という表面上は決して語らないもので、ものを教わるものたちにものの学び方を教えるのである。

 しかし、それでも、妙な誤解をするものもいるだろうし、強く我を張って、決して心の中にそれを受け入れまいとする人間たちもいよう。そういうものたちには、仕方がない。言葉で伝えるしかない。言葉と態度の両方で示すのだ。そうすることによって、教える側の誠実さというものはより光り、鋭さを増す。その鋭さで、けっして開かれないであろうとも思えるものをつき壊していくのである。ただ、ここで気をつけねばならないのは、言葉で教えるということはそれなりの鋭さを持つ分、使い方によっては、相手を壊してしまうことにもなりかねないといことだ。それゆえ、冒頭でも述べたように、軽々しくは使えないし、軽率には責任をとろうと思ってはいけないのである。それでも、敢えて使おうというのであれば、言葉を使うことによって引き起こされるであろう苦しみに対する責任を背負うしかない。それはかなりの荷物になるであろう。それはかなりの痛みになるであろう。時には、自らの身を縛り、時には、自らの欲望よりも優先させねばならないこともあろう。だが、耐えねばならぬ。そういう覚悟を持って、初めて言葉で、ものを教えることができるのだ。

 従って、責任感のない私は言葉でものを教え込むことはできない。だから、唯一の武器である態度。これをもって、塾講を続けるしかないのである。確かに、これだけではか弱くもろい武器である。しかし、それさえも心がけずにものを教えている人間たちよりかは、数等良いのではないだろうか。また、責任感がないからといって、それであきらめているわけではない。これでも「やるなら一流を目指せ」の旗印をかがげる私からすれば、少しずつでも責任を持とうとしているのである。重いからといって逃げる気はない。だからといって、すべて背負い込もうとは思わない。運命のままに、与えられた責任を適度にこなしていくだけである。