才能というカテゴリーと教育

才能というカテゴリーと教育

なんだかんだ言っても、個々に才能の差はある。

絵のうまい人、デザインのできる人、人と話をするのに緊張をしない人。野球のうまい人、長距離走が得意な人。育った環境やら、体の得意不得意。そして、遺伝。どう考えても、才能というものは存在するとしか思えない。

だが、やはり同じ人間なのだから、ある人にできて、違う人にはできないということはあまりないだろうと思いたい。もちろん、そういう分野もあるが、何か代替的なこと、代替的なアプローチはできると信じたい。ただ、人によっては、ある行動をするのに時間がかかったり、難しかったり、気が向かなかったりするだけのときもある。だから、才能の有無というものを一つのカテゴリーとして捉えることは間違ったことではないと思う。

ただ、間違いなのは、才能というカテゴリーを理由にして、最初から決めつけることだ。算数ができないから、数学ができない。これも1つの決め付けだ。才能がないからしないとか、才能がないから嫌いになるとか言って、いいわけにする人もいる。そんなことを言っていたら、何もできないじゃないということもある。それに教育という分野で考えると、できないことも、その根本を学ぶ辛さ、大変さはあれども、本人にとっては、それをしがみついて学んだ!という自信という意味で、大きな収穫になるはずだ。才能というカテゴリーはデリケートなものなのだから、そうたやすく決めつけるべきものではないと思っている。