精読より速読術読書と読書傾向

精読より速読術読書が効率的!?

最近。本を読むことのスピードが以前よりもずっと速くなったような気がする。以前は、一冊をじっくりと二,三日かけて読むということをしていたのだが、近頃、しかも、ここ何週間の内に一日一冊主義になってしまった。これはおそらく仕事によって、気ぜわしくなったせいであろう。

さらには、読書の傾向に大きな変化があった。その読む本のジャンルが、あたかも、ハードロックを聴いていた人がケルト民謡を好んで聴くようになるほどの変化があったのだ。

以前私は好んで歴史小説、実説を読んでいた。しかも、中国史や、日本史の類のものばかりであった。したがって、好きな作家といえば、宮城谷正光や、陳舜臣、司馬遼太郎、津本陽といった歴々たる歴史作家たちだった。

しかし、感性の目覚めとでもいうのか、不意に読んでみた文学小説がたまらなく気持ちよく感じられた。殊に、大江健三郎の「見る前に跳べ」では、その作品の表情の豊かさにただ舌を巻くばかりで、ページをめくる度に驚きと、自分には決して書けないであろうという諦めからくる嘆声の連続だった。以来、文学的小説を故意に読むようになった。もちろん、昔は読まなかったというわけではない。けれども、あまり面白さを覚えた記憶がなかった。これは年齢の変化とでもいうのだろうか。

年を取るごとに、面白さの基準が変わってくる。それは読書においてだけではなく、すべてにおいてそういえるだろう。遊びとてそうだ。幼い頃は、ただみんなと何かをしていれば、それで十分楽しかった。中学生ぐらいになると、少人数でゲーセンなどで遊んでいることが楽しかった。高校になると、気に入った友一人を連れて、どこかを歩くことが無情の楽しみだった。そして、今では、何が楽しいかわからなくなってはきているが、大好きな人間と一緒にいるだけでうれしさで胸が張り裂けそうになる。それと同じように、読書においても、年齢によって、面白い、楽しいという感覚がずれるのではないか。そして、それは、自分の体験にダブリングを感じるとき、よりいっそうの面白さを感じるのではないだろうか。

ということは、私は少しは文学的になったということではないか。これは、これは。人間というものは好きでものをしていると、少しずつその腕が上がるといわれるが、私も少しは成長したのだなあ。このままいけば、マット・ディロンも、そしてエド・ウッドもアッと叫んでカラスを口にくわえるほどの大作家になってしまうのではないだろうか。

さてさて、机の上に飾ってある赤い鼻のピエロがニタついとるよ。