テリトリー論

テリトリー論

一般的に、人には得手不得手がある。野球が得意でも、英語、数学の才能のない人。音楽の才能は抜群でも、車の運転のものすごく下手な人。力はものすごく強くても、それを活かすことにやる気のない人。それぞれに、得意の領域、不得意な領域があるのだ。

得意の領域では、人は皆かっこよく見えるらしい。私の例で恐縮きわまりない上に、勝手にオモットケと思う方もいられるかもしれないが、とりあえず、目を血走らせずに、青筋を立てないで聞いてもらいたい。

私の場合、とりあえず、ビリヤードをまま得意としている。殊に、特殊打ちにはかなりの鼻高々な自信がある。ボールを浮かせる技や、急カーブのボール、後ろ打ちからの強いショット。これらをたまには駆使して、ビリヤードを進めていくのであるが、ある日、私がゲームの最初で打とうとして構えていると、どうだろう、急に友達がコソコソやり出した。私は場に真剣になるということがほとんどない人間で、いついかなる時でも人の話をいくつか聞こうとしている。したがって、ピンと張った私の耳には、友人二人のひそひそ話がある程度は聞こえてきた。それによると、ビリヤード上では、私の打ち方が落ち着き払っていて、普段かっこいいといわれている友人よりもかっこいいというのだ。それを耳に入れ、得意になった私は心ウキウキ、胸弾んだまま、最初のショットをした。しかし、世の中はうまくいかないもので・・・。

と、まあ、自分の領域ではやはり、日頃はかっこいいものでもない人間でもかっこよく見えるらしい。ここから推察するに、デートなどで好きな女の子に自分の魅力を見せたいのであれば、自分の領域につれていくのが効果的なのではなかろうか。これは別に、女の子にだけ効く方法ではあるまい。接待の場でも活用できるように思われる。相手がかっこよく見える場所、すなわち、相手の領域に相手を連れていき、そこで接待をする。そして、相手のかっこの良いところを見てこそ、接待をする側としてもより心からの接待ができるのではないだろうか。

もっとも、自分の領域とはなかなか見つけにくいものではある。そのためには、いかにすればよいのか。簡単なことだ。何にでも、ちょっかいを出すことである、自分に触れてくる何もかもに挑戦していくことだ。自分で否定や拒否ばかりしていては、それは見つけることはできまい。自分本位に、ずっと探していくことが大切なのである。その結果にこそ、自分もうなずけ、人もうなずけるテリトリーが見つかるというものである。

そうは言ってもとうなだれる人よ。自信でもって、自分のうなずけるテリトリーを他人にも認めさせればよいのである。切磋琢磨をして、自分のテリトリーにしてしまえばよいのである。

人にかっこよく見せるとき。それはいつでもというわけにもいくまいし、いつでも、かっこよければいいというものではない。むしろ、大事なときに、いざというときに、スラッと抜ける短刀であればよいのだ。そうでなければ、疲れてしまうのではないだろうか。かっこよさというものは、客観のものではないし、主観のものでもない。むしろ、自分も人も、自他共に認めてこそ、そこにかっこよさがあるのではないだろうか。

かくいう自分も、時代に流されてテリトリーとは違うところで遊びたがったり、人を呼び込んだりもする。その結果、40歳前のショボクレ親父のように、肩をシナッと落とした結果になることは多々ある。それが、人間だから、私はそれでいいと思う。でも、テリトリーを持っていずに、そうなるよりは、ずっとエクセレントではないか。そんな風に思い、石段に蹴躓くことの多い私ではある。ああ、今日もすねと耳が痛い。