青春&友情小説「雨」2

青春&友情小説「雨」2

新宿駅の4番線ホームから、山手線の電車に乗り込む。終電近いためか、車両はギュウギュウ詰めだった。腕を少し動かすだけで、誰かに当たるほどだ。こんな電車の中では、痴漢行為の意思がなくても、痴漢行為と勘違いされるような状態になってしまう。だから、僕は極力両手、両腕を動かさなかった。勘違いされて騒がれれば、面倒なことになる。まったくやっかいな空間だ。体を動かす自由さえもない。
さらに文句を思えば、人が多く乗っているために、車両はとても暑かった。水滴大の汗が次から次へと噴き出してくる。さっき見た地下から吹く雨と同じだ。べたついた肌から、汗がぶくぶくと噴き出し、余計に車両を暑く感じさせる。ハンカチで拭こうにも、手の自由がほとんど利かないため、汗を拭うこともできない。おかげで汗はどんどん滴ってくる。額から頬に、頬から顎に。もっとも、そんな状態にいるのは僕だけではない。周りの人のほとんどもそうだ。誰ひとり心地よさそうな顔などしていない。むしろ、苦虫をつぶしたような顔をしている。
動き出した電車は乗客全員に激しい揺れをもたらす。おかげで、電車が揺れるたびに、周りの人たちが僕にぶつかってくる。目の前の灰色のスーツを着た男が革靴の堅いかかとで僕の足を踏んだ。重い痛みが走る。思わず、僕は声を上げそうになるが、歯を食いしばってこらえる。スーツの男は足を踏んでいることに気づくと、すぐに足をどけたが、僕に謝る様子は少しもない。不可抗力なんだから仕方がないだろうと言わんばかりの表情で、僕を見ただけだった。何か違う。僕はそう思うが、こんなにも混んだ電車の中では、周りの迷惑を考えると何もできない。何か変だ。僕の中に、握り拳大のしこりができた。
スーツ姿の男は渋谷で降りた。結局、僕に何も言わずに。僕は降りる男の姿を見ながら、何かがないことに気づいた。しかし、それが何であるかを考える間もなく、僕は車両の奥の方へと押し込まれていった。渋谷で乗ってきた人たちが、僕を押して来たからだ。ブルーのノースリーブを着た若い娘の腕に押しやられながら、僕は反対側の扉まで押されていった。そして、体を扉に思いっきり押しつけられた。足が扉にぶつかり、屋根から雪が落ちるような音がする。それでも、若い娘はまだ僕を押していた。彼女の白い手提げ鞄が僕の足に挟まれるような形になっている。僕は股を閉じることもできなくなった。けれど、彼女も後ろから押されているらしく、苦しい表情をちらつかせていた。
その娘がかわいそうだと思った。これは男としての悲しい性かもしれない。もし、苦しそうにしていたのが男なら、僕は同じように思ったろうか。あり得ないだろう。公平に見ることができない。僕には、それが悲しい。

扉に張られた窓から、恵比寿駅のわずかな明かりが差し込んでくる。窓に映る光から、恵比寿駅周辺の明かりよりも、車内の電灯の方が遙かに強いことに気がついた。これまで電車に乗っていて、光のことなど、あまり気にしていなかった。電車内の明かりの方が外の明かりよりも強いことを。
案外、気づかないことが多いものだ。意識していないと見過ごすもの、意識していないとないと誤解するもの。形のあるものですら気づかなかったり、誤解するのだから、形のないものに対してはどうだろう。いっそう、形のないものに対しては気づけないのではないか。いっそう、自分で意識しなければ、気づくことができないのではないか。
そんなことを考えているうちに、車両中に、恵比寿へ着いたという放送が響き渡る。揺れが止まり、周りがざわめき出す。
反対側の扉が開いた。車内とは、対照的な夜の外気が車両に入ってくる。それと同時にいくらかの人が開いている扉に向かって歩き出した。幾人かがこの車両から下りたようだ。背中からの圧迫感が薄れていく。背中に風が当たるようになり、おかげで、多少は息がつける。しかし、それもつかの間のことだ。ほんの少しの間だ。すぐにたくさんの人が乗ってくる。そして、また背中への圧力が強くなる。手足の自由も利かないほどの混雑。よくこんな中で生きていけると思う。実際、イヤでイヤでたまらないのだが、電車以外では帰れない。歩いて帰るには遠すぎるし、タクシーで帰ると高すぎる。友達に迎えに来てもらうのは迷惑だろうし。
案外みんな、似たようなことを考えているのかもしれない。赤い顔をした中年のサラリーマンも、大きなヘッドフォンを耳に付けた若者も、ひとつの吊革を我がもののように捕まえて、誰にも明け渡さないとがんばっているビジネスマンも。みんなみんな、こんな混んだ電車になんか乗りたくないんだ。けれど、やむを得ないのだ。自分たちがこの社会で生活していくためには…。みんなみんな我慢している。僕も我慢している。みんな、同じなのかも知れない。