青春&友情小説「雨」5

2018年9月29日

青春&友情小説「雨」5

車体中央に水色のライン。京浜東北線の車両がスピードを落としながら、目の前を走っている。耳に突き刺さる風の音が僕に前を向くように促す。だが、前に立っている男があまりに痛々しい。できることならば、見ないでいたい。まるで現実を突きつけられているような気がする。僕だって、そうなるかも知れない。イヤな仕事、自由も利かない通勤電車。暑くて重いスーツ。僕だって、くたびれたスーツで、重くもない鞄を重そうに持ってしまうかも知れない。腕をだらりと伸ばし、鞄を持っているという意識さえなくしてしまうかも知れない。これもひとつの現実なのだ。
そんな現実に飲み込まれるなんて、まっぴらゴメンだ。
けれど、僕はこれから先だんだんと老いるだろう。くたびれていくだろう。毒虫に吸われるように体力を失い、終いには、生気さえなくしてしまう。そんなくたびれ方はしたくない。それならば、どうすればいいのだろう。僕にはわからない。彼がどんな生き方をして、このようなくたびれた状態になったのかを知らないのだから。それに、彼が元々そういう人間なのかも知れないからだ。だから、彼のことを考えて、僕自身について考えることは不可能だ。僕にはわからない。
だが、とにかくイヤなものはイヤなのだ。くさい臭いが嫌いなように、僕はくたびれた生気のない状態を嫌う。けれど、どうしたらいいのか…。何をすればこうなり、何をしなければこうならないのか。自分でわかるほど、僕には経験がない。

京浜東北線の電車に踏み込むと、外の空気とはまったく違うことに気づいた。むせてしまいそうなほどの熱気が鼻を突く。山手線よりもたくさんの人がいて、さっきの電車よりも熱気が込み上がっているのだ。しかも、梅雨の時期だ。蒸すのだ。汗を滴らせているおじさんを後目に、僕はしかめ面をしながら、自分の立ち位置を確保した。それから、ふと周りを見回した。誰も楽しそうな顔をしていない。みんな、みんな疲れている。重い荷物を背負っているように、歯を食いしばっている。何かに倒されないように、何かにつぶされないように。みんな、懸命な顔をして踏ん張っているように見える。それがとても辛そうに見え、疲れているように感じるのは僕だけなのだろうか。
後ろの扉から次々と人が乗り込んでくる。人の波に押されるままに、僕は車両の奥の方へと流れていく。もみ合い押されながら、僕は窓側の座席の前に移動した。僕の前の座席に座っていたのは、ピンクのカットソーを着た20代ぐらいの女性だった。うなだれて眠りこけていたが、服装や雰囲気からして、若い女性であることに間違いない。遊び疲れたか、仕事で疲れたかは知らないが、長い髪を垂らして眠っている。
電車が音を立てて動き出した。車両全体が揺れる。目の前の女性の髪も揺れている。肩を震わすことなく、ただ彼女の髪だけが揺れている。押されながら、押されながら。僕はプラスチックの吊革に必死につかまった。ふと、今が何時なのか気になり始めた。新宿を出たのが、確か12時頃だ。ということは、だいたい12時30分ぐらいだろう。これで家に帰って、何をしよう? 寝るだけか。
そう考えると、面白くない。寝るためだけに家に帰る。無駄なことのような気がする。寝るだけなら、前の女性のようにここで寝ても良いじゃないか? そういえば、なぜ、みんな家に帰りたがるんだろう。休むためなのか。ゆっくりするためなのか。大好きな妻の顔を見るため、子供の顔を見るため。自分の趣味をするため。だが、僕には大好きな妻もいなければ、ましてや子供もいない。家でなければできないような趣味もない。むしろ、家に帰れば、寝るための準備やら明日の準備といったイヤなことが残っている。
思えば、僕のような人間もいるのではないか。家に帰る必要性に疑問を持ち、それでもなんとなく家に帰る人間がいるのではないか。なぜ、僕らは家に帰らなければならないのだろう。家に帰る必要。そういえば、僕は考えたことがなかった。
ホームの明かりに包まれると、電車が大井町の駅で止まった。いそいそと数人の乗客が下りる。だが、下りた人数の2倍以上の人数が乗車してきた。さっきよりも人の数が増え、車内はさっきよりも2倍混み出す。人の息が耳に当たるほど混雑し始めた。すると、僕はさっきよりも強い圧力に耐えきれなくなり、一歩前に足を出さざるを得なくなった。それでも、背中への圧力はだんだんと増していく。このままでいけば、僕は目の前にいる女性の頭を蹴ってしまうだろう。不可抗力でも、僕は彼女を蹴りたくなかった。彼女の安らかな眠りを覚ましたくなかった。せっかく眠っている者を。せっかく心地よい場所にいる者を、心地よい場所から追い出すなんてしたくない。水をかけられたように、僕の額にはたくさんの汗が出ていた。水面に浮かんでくる水泡のように。僕の汗は生まれ、僕を流れていく。
ホームの明かりから遠ざかり、電車は次の大森駅を目指して走り出していた。電車の中で、僕は電車と同じように大森駅を目指している。家のある蒲田に向かって。僕も電車も走っている。けれど、電車のスピードは僕のスピードではない。僕が何かを考えているうちには、その答えを見つける前には、次の駅まで着いている。そして、その度に僕の思考を壊すかのように、人が僕に圧力をかけてくる。僕の自由を奪っていく。考える自由や見る自由。感じる自由さえも。体からは水分を奪い、生気を奪っていく。混んだ電車が僕を奪っていくのだ。僕のペースを。僕の生き方を。

 


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