青春小説「大学入門す」8

青春小説「大学入門す」8

 太陽が完全に落ちたというのに、ネオンのおかげで新宿は明るかった。僕と祐子はみんなと別れた後も、代々木、渋谷方面に向かって新宿を歩いていた。かなり飲んだらしい祐子は、歩くスピードが速かったり、遅かったりと不定期だった。でくの坊な電信柱にぶつかりそうになったことも度々だった。
「ねえ、ユージ。彼ら、すごくいい人だったね。私は心配してたんだよ。また、友達がいないとか言って、ブルーな学校生活を送ってやしないかって」
そうか。祐子は口では友達なんかいなくてもいいのよと言いつつも、僕のことを心配してくれていたのか。そう思うと、嬉しくもあり、悲しくもあった。悲しく感じたのは、同情されていたような気もしたからだ。祐子の僕への同情が、忘れ去られた時間の中で僕への愛に変わったのだとしたら。つまり、それは愛じゃない。愛だったとしても、虚しい愛だ。僕が満たされる環境になったら、たちまちに去ってしまう愛だからだ。僕にはそんな愛は残酷すぎた。
「なあ、祐子。お前、本当に俺と一緒にいたいか? 同情じゃネエだろうな?」
祐子に僕は悲しい目で問いつめた。
「そんなこと言うんだ。わかったよ。なんで簡単な理由に気がつかないのかなあ? どうして、そんなに難しい理由に飛びつくのかなあ? ユージ。もっと本能的に。素直になりなよ。人間のすること、やることって簡単なことなんだよ。難しいことなんかないんだよ。人間なんだから。もっと率直に考えなよ。深く考えて自縄自縛してるだけだよ、今のユージは」
酔っているとは思えないほど、しっかりした言葉だった。そして、僕には祐子のその言葉が、祐子の体全身から出されているような気がした。祐子の僕への思い全部のような気がした。とてつもなく重い言葉だった。
代々木の駅が側に見えてきた。そこに新宿の明かりはいっさいなかった。僕らはそこから電車に乗った。電車は次の明かりを目指して、ゆっくりと代々木駅を滑り出した。

六月に入ろうとしていた。重い雨の続く六月。考えただけでも優鬱だった。そして、憂鬱な考え事はそれだけではなかった。佐々木の提案した、あの飲み会以来、僕と祐子は一ヶ月も会っていない。僕は新しく始めた塾でのアルバイトが忙しく、祐子は自分の学校での授業が忙しいらしかった。もっとも、忙しいのが理由ではあるまい。あくまで、これは表面上の理由にしか過ぎないだろう。現実的な理由は、あの日の僕の不注意な言葉だろう。僕はあの忌まわしき言葉で祐子を傷つけたのだ。酒が僕に言わせた言葉が、僕と祐子の間に大きく立ちはだかる壁となっていたのだ。ヒョイと飛び越えるには、その壁は高すぎる。
ダラダラとそんなことを考えながら、僕は図書館で比較文化論のレポートを書いていた。提出が明後日だというのに、まったく進まない。僕は座り心地の悪いわりにはやたら大きいイスにもたれかかりながら、出来うる限りの大欠伸をした。だが、問題は何も解決しない。
気づくと、目の前で今坂さんが笑っていた。
「大きなアクビしちゃって。図書館の似合わない人だね」
「ハイハイ、うるさいなあ。今坂さんこそ、どうしたの、図書館に何か?」
言った側から、自分の質問が愚問であることに気づいた。自分と同じ用に違いない。レポートを書くために、その参考資料を取りに来たのだろう。胸に抱えた青いカバーの本がいい証拠だった。だから、僕は今坂さんの言葉を遮った。
「ねえ、そんなことはいいや。それよりも、ちょっと休憩しようと思っていたんだ。外にジュースでも飲みに行かない?」
今坂さんは赤い革バンドのついた時計を見てから、にこりと笑って、大事そうに抱えていた本を僕の荷物の隣に置いた。
缶コーヒーがよかったのだが、あいにくと缶コーヒーはなかった。仕方なく、僕はミルクティーを買った。そして、今坂さんの待っている図書館の横のベンチに急いで戻った。色のはげ落ちた水色のベンチに、今坂さんは溶け込んでいた。
「ねえ、最近、元気ないね? どうしたの?」
今坂さんは僕が精神的に参っていることに気づいていたようだ。さも聞くことが当然のようにたずねてきた。
「別に。理由ないよ」
「そうなの。それならいいけど。私は最近ブルーなの」
下を向きながら、今坂さんは言い放った。たしかに、最近今坂さんの様子が変であった。これは、鈍感な僕にも感づくことができた。絶えずボーっとしていて、ランチの時に箸を落としたりすることなどが頻繁にあったからだ。何かあることはわかっていても、僕にはそれを聞くだけの勇気がなかっただけだ。もっとも、今坂さんの様子がおかしいことに関心がないというのも理由の一つだが。
「ふーん。みんな、色々抱えているよな」
返事がなかった。聞こえなかったかなっと思い、もう一度言おうとしたとき。今坂さんは顔を上げて、僕にこう言った。
「ねえ、ちょっと相談があるんだけどいい? 聞いてくれる?」
張りつめた目。刀匠が刀を打つときに見せる。そんな目だった。
「ああ。いいよ」
僕にはそうとしか答えられなかった。恐かったからだ。あまりにも真剣すぎる目で、僕の心は寸分さえも動くことを許されていなかった。
「私、今度学校を辞めなくっちゃいけないかもしれないの。お父さんのやっていた会社がお父さんをクビにしたの。リストラね。そのせいで学費を払うのがきついんだって」
意外だった。今坂さんはお嬢様といったカンジのある人で、お金持ちだと思っていたからだ。
「私が働いて学費を出すっていうのでもいいんだけど、それでも現実問題きついと思うの。それで全部が中途半端になったら、私、つぶされちゃうと思う。だから、今のうちのスパッと大学辞めようかと思って」
「それでいいの?」
僕は聞いてはいけないことを聞いてしまったと後悔した。人慣れしていないと、聞いていいことと聞いてはいけないことの分別が咄嗟にはつかなくなる。僕は本当に人慣れしていない。
「嫌だけど。先のことを考えると・・・。じゃあ、近藤君はどうすればいいと思う?」
僕にはわからなかった。何が一番良いことなのか。大学に働きながら通うこと、大学を辞めて働くこと。どれが今坂さんにとって、もっとも良い道なのか。見当もつかなかった。人と多く接している人ならば、何か良いアドバイスができたのかもしれない。しかし、僕はそうではない。むしろ、人を避けている。そんな僕に適当な判断など下せない。それどころか自分の意見さえも確立できなかった。
しとしとと降る雨。かすかに肌を刺激する風も、雨のいやらしい匂いしか伝えない。僕は鼻につくその匂いを気にしながら、無言で今坂さんの話を聞くしか方法がなかった。これでは今坂さん一人がベンチに座っているのと変わりがない。