青春小説「大学入門す」9

青春小説「大学入門す」9

 しとしとと降る雨。かすかに肌を刺激する風も、雨のいやらしい匂いしか伝えない。僕は鼻につくその匂いを気にしながら、無言で今坂さんの話を聞くしか方法がなかった。これでは今坂さん一人がベンチに座っているのと変わりがない。

灰がくすんだ空のもと、僕と佐々木は夜の大学を散歩していた。夕方まで降っていた雨もさすがに降り続けるということが辛かったらしく、夜になってやんでしまった。昼間の蒸し暑さが嘘のように洗い流されて、暑いどころか寒いぐらいだ。
黄色いTシャツ一枚の佐々木は寒そうだった。時折、震えが来るのか、身震いをしている。だが、佐々木は大学のキャンパスの中を守衛のようにグルグルと歩くことをやめようとしなかった。
「なあ、ビール飲む?」
さっきまで黙ったままだった佐々木が、唐突に声を出した。そして、華奢な佐々木の背中には不似合いな登山用のリュックから、赤と白の模様のバドワイザーを出した。
「冷えてないけどな」
僕の手にバドワイザーを渡すと、佐々木はもう一缶リュックの中からバドワイザーを出した。プシュッという炭酸の漏れる音が暗いキャンパスの中に響きわたる。
「俺さあ、ふいに感傷的になることがあるんだよね。自然に囲まれてみようとか、立ち止まって色々なことを考えてみようとか。でも、結局一人だと、すぐに淋しくなるんだ。へへ、俺らしくないだろ? でもなあ、本当の俺っていうのは、そういう奴なんだぜ」
自嘲気味に佐々木は話していた。それは昼間の佐々木をバカにしている別の人間のようだった。
「でな、こうやって男と散歩するのが好きなんよ。しかも、好きな男じゃないとダメなんだ。勘違いするなよ。俺がホモとかそういうのじゃないから。人間的に信用のおける奴っていうことだ。お前を入学式で始めてみたときから、不思議と感じるものがあったんだ。こいつはいい奴だって。だから、人見知りな俺も話しかけることができたんだ」
いつもの佐々木を見ていると、人見知りの”ひ”の字も感じられない。
「よく言うよ。お前、ペラペラと人と話すじゃないか?」
少しムキになった様子で、佐々木は勢いづいて答えた。
「あれはなあ、営業用の俺だ。自分を売っておかないと、後々大変だからだ。だけど、お前や米原、今坂といるときは違う。もっとも、営業用のテンションが延長されることもあるけどな。基本的に、絶対俺は公私混同はしないぜ」
「そうか」
缶を傾けながら、僕は横目で佐々木を見た。どんな顔をしているんだろう? そんな好奇心が湧いたからだった。
「なあ、祐子ちゃんだっけ? お前の彼女。あの子、すごくいい目をしているよな。お前を彼氏に選ぶんだから」
「褒め殺しはよしてくれ。それに最近は会ってない」
祐子のことを突かれたので、僕は少々動揺した。自分でも声が感情的になっていることがわかる。
「なんで? あんなに仲がいいのに」
「祐子の心が俺から離れたんだじゃないかな?」
僕は残り少ないバドワイザーを一気に飲み干した。そして、空の缶をスチール製のゴミ箱へと投げた。ドカンとゴミ箱は悲鳴を上げる。
「なんで?」
理由は簡単だった。理由はわかっていた。だが、答えることがためらわれていた。言葉に出したら、その理由がカタチになりそうなのが恐かった。
「うーん。ひょっとしたら、俺に惚れたのかもしれないなあ。あの時、俺の話を熱心に聞いていてくれたしー」
無理矢理な明るい声で佐々木は言った。そして、僕よりも二、三歩先に歩いてから、言葉をつなげた。
「けどな、そうにしてもだ。心が離れたからといって、それでいいのか? 俺がお前だったら嫌だな。だから、極力自分で動くね。納得がいくまで。心が動くのは仕方がないさ。生きているんだから、いろんなものに感化されるし、考えることも自然と増えてくるし。だからといって、離れた二人の心の距離を縮めないっていうのは虚しくない? 追いかければいいじゃない。心が離れたら、また二人の心を近づけようとすればいいじゃない? 何かお前らを見たときに、どちらかといえば、お前よりも祐子ちゃんの方がそれをしている気がした。お前との距離を埋めようとしているように見えたよ。今度はお前がそれをすればいいんだよ」
佐々木の言葉は微かながら震えていた。背筋に迫るものを感じる。鋭く突き刺さるのだ。入学式で初めて佐々木に会ったときに感じた、これまでの僕が軽蔑しきっていたヤツらとはまったく異質な空気。鋭く、そして張りのある空気だ。
「なあ、近藤。俺がチャラチャラしているように見せているのは、いつもこんな感じになりたくないからなんだ。こういうふうになっているときの俺は、人の気持ちなんか考えなくなる。いや、正しく言えば、俺が人としての自覚をなくしてしまうんだ。賢いけど、温かみがない。クールで刺々しくなっちゃうんだ。それのおかげで、俺は多くの友をなくしてきたし、人も俺を避けるようになった。強いばかりの人間に見えちゃうんだろうな? 子供心にそんな自分がわかっていたよ。おかげでなあ、俺も友達のほとんどいない生き方をしてきたよ。祐子ちゃんから、お前が友達のいない人生だったって聞いたときに、俺はすごく親近感が湧いた。似てるなってね! お前ならわかってくれそうな気がしたんだ。俺のことを!」
佐々木の空気が張りつめていた。風船のように張りはあるが、今にも破裂しそうな空気。その空気のせいで、僕は総毛立っていた。これほどまでに神妙な空気を今までに感じたことがない。僕はこの鳥肌を夜の寒さのせいにしたかった。恐かったからだ。
「昼間さあ、今坂さんから相談されたんだ」
佐々木のこの空気を払拭すべく、僕は話題を逸らそうとした。
「ん、なにを?」
僕は佐々木に近づいて、今坂さんが大学を辞めなければいけないという昼間の話を伝えた。佐々木は驚いた様子もなく、また悲しむふうでもなく、ただ黙って聞いていた。時々、相づちを打つようにうんと唸るだけだった。
「そうか。今坂も大変だな。みんな、いろいろなものを背負って生きているんだな。お前も、今坂もな」
自分もそうだと言わんばかりに、佐々木は闇の中で目を光らせた。