恋愛小説「愛はその時生きて・・・」6

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恋愛小説「愛はその時生きて・・・」6

 雛形が缶コーヒーを片手に持っていた。そして、僕に勧めていた。いつの間にか、雛形は缶コーヒーを買いに行っていたようだ。そんなことにも気づかずに、僕は謙との思い出にふけっていたのだ。懐かしかったからか、それとも謙との突然の別れが辛かったからか。おそらく、後者の方だ。きっと。
「よく飲み物なしで食べられるね?喉につっかえません?」
あいかわらず丁寧な口調だ。物腰の柔らかな雛形は、謙の生きていたときも謙の乱暴な口の効き方にも同じだった。そして、きっとこれからもそうなのだろう。僕がいなくなろうと、雛形の話し方は変わらないだろう。結局、何かが無くなろうと変わらないものはあるのだろう。
そんなことを考えていたので、僕は雛形の問いに無言になってしまった。気まずいと思ったのか、雛形は今度は木津に話しかけた。
「ねえ、木津さん、謙の小説って全部読んだことあるの? 」
「ううん。あの人、なんだかんだいって、自分のすべてを人に見せるタイプの人じゃなかったから。結構、秘密主義者なんだよね」
さっきまで虚ろだった木津の目には、小動物の瞳にあるような生気が戻りかけていた。声にも多少張りがある。もちろん、午前中の勢いには比べようがないほど、しぼんだものではあるが。
「そう。僕、彼の小説もエッセイも結構読んだことあるけど、彼の文章って、クセがあって読みにくいところとかあるよね。でも、たまには良いこと書いていたよね。一回全部読んでみたいよねえ。木津さんも全部読んだことないって言うんだから、多分僕も全部読んだことないよ。古西はどうなの?」
「うーん、たぶん全部は読んでいないんじゃないかな。結構、書きかけの小説とかあるはずだし。謙はひとつのテーマじゃなかなか書けないって言ってたから、いろいろ書いていたみたいだし。使っていないネタとかは残っているんじゃないかな」
「そうか・・・。ねえ、これはまずいことかもしれないけどさあ、謙の小説とかエッセイ、全部読んでみたいとか思わない? 僕、カタチとして、心の中にとどめたいんだよね、謙のこと。そうしないと、謙のこと、整理つかないかも」
僕はすぐに肯きたかった。今頃まで、そんなことを忘れていた自分がバカに思えるほどのことだった。だが、木津がどう反応するか。それを見てから、返事をしても遅くはないと思った。
「勝手に読むのはまずいよ。謙だって、向こうで嫌がるかもしれないよ」
木津は反対した。けれども、顔は正直だった。読みたい、読んでみたいという欲望がありありと見えていた。強くは反対していないのだ。むしろ、とりあえず反対しておこうという顔だ。
「それでもさあ、雛形の言うこと、わかるような気がするよ。確かに、謙のこと、俺はなかなか整理つかない。だって、あいつのこと、すごく好きだったから。あいつの作品も含めてね。見て、読んで、謙を忘れるとかじゃなく、ひとつの良い今にしたいんだ。謙だって、ずっとこだわってもらいたくはないだろう。自分の死に」
僕の口は思わず雄弁になった。不思議だった。謙なら言いそうなことだが、それを僕が言うなんて思いもよらなかった。何かおかしかった。急に笑いがこみ上げてきて、吹き出してしまった。
「何がおかしいの?」
雛形は真面目に僕に尋ねた。そんな雛形を無視するように、僕は木津の方を向いた。
「いいや、別に。木津、行こうよ、謙のうちに。謙のとこへ」
僕は強引に木津の手を取った。立ち上がり、僕は駅に歩き出した。謙の家に行きたくないのか、行きたいのかわからない木津を引っ張って。呆気にとられている雛形は、缶コーヒーを片手にゆっくりとついてきている。目の前の甲州街道を、車たちは忙しそうに駆けている。それは本当に忙しそうに。一本道を止まることがありえないように走っていく。今日はそれが嬉しい。さっきまで見たくもなかった車たちの走る光景が、今はなんだかありのままに見ることができる。
謙の家は四谷の旧家だった。料亭のように大きく、木造のあたたかさのカタマリという感じだった。僕や木津にとっては、もう当たり前のように見える門が存在する。雛形は葬式以外には来たことがなかったので、もうその門の大きさに飲まれているようだった。
「おじゃまします。あの、謙君の同級生だった古西というものですが」
「はい、少々お待ち下さい」
そんな声と同時に、門は仰々しく開く。門からは、エプロン姿の謙の母親が出てきた。門がなければ、一般家庭の出迎えの様子とまったく変わらないのだが、門があるために謙の母親が女中さんのように見える。
「どうもお葬式の時はお世話になりました。今日は、謙君の部屋を見に来たんです。謙君が残していったものをはっきりと目で見たくて。上がっても構いませんでしょうか」
僕の口からスラスラと挨拶が流れてくる。まるで謙が乗り移ったかのように、僕は要領よくしゃべることができる。自分でもかなり不思議だ。
「ええ、どうぞ。謙の部屋はまだ片づけていませんので。謙のために、ありがとうございます。どうぞ、お入り下さい」
謙の母親らしく、気丈な人だ。微動だにせず、すぐに僕らを中へと案内していった。
白い梅の咲いている中庭を通り、僕らは玄関に達した。
「どうぞ、むさ苦しいところですが」
そういうと、謙の母親は僕らに花柄のスリッパを出し、玄関の少し先にある階段を指さして、言葉をつないだ。
「古西君は知っているでしょ? あの階段を上がって、すぐ右の部屋です。私は何か持っていきますので、先に上がっていて下さい」
そう言うと、謙の母親は奧に姿を消した。小走りに近い様子だった。初め、僕は謙の母親が忙しいのだろうと思ったが、考えてみれば、そんなに忙しいわけがない。おそらく、謙の母親は忙しさの中に息子を失った悲しみを隠そうとしているのだ。何もしないでいれば、気が狂ってしまうのだろう。僕にもその気持ちがよくわかった。
謙の部屋は少しも変わっていなかった。壁紙はブルーのままだ。天井からぶら下げられたゼロ式戦闘機の模型、そして、黄色い画鋲で留められて、部屋一杯に飾られている謙とみんなの写真は主人のいないことを、僕たちにいっそう強く思い起こさせる。僕には、そんな部屋の様子がたまらなかった。まだ、謙が生きているような感じがする。謙が下の階から紅茶を運んできてくれるような気がする。やはり、なぜ、謙は死んでしまったのだろうか? 僕にはそれがわからない。不思議で仕方がない。
「ねえ、木津さん。謙はいつもなんでモノを書いていたの?」
「・・・・・たぶん、パソコン」
木津も僕と同じ気持ちだったのだろうか。勉強机の上にあるノートパソコンをやさしく撫でている。この部屋の様子を見て、感傷的になっているのだろう。再び鬱いだ様子になっていた。
「これかな、じゃあ。へー。IBMですか」
雛形はこの部屋に入ったのが始めてだからだろうか。少しも、部屋の空気に押されている様子がない。僕には少しそんな様子の雛形がうらやましく思えた。
階段を登ってくる音が聞こえる。やがて、その音は止まり、ドアがゆっくりと開いた。謙の母親だった。
「どうぞ、みなさん。あ、ご自由に見て構いませんから。古西君、こちらの男の方は?」
「あ、初めまして、雛形です。謙君には、大学で仲良くさせてもらいました」
「そう、あなたが雛形君。謙がよく言ってましたよ。雛形は、金がないから飯をちゃんと食っているのかなあって。謙は本当に変わった息子でねえ。人様のご飯の心配なんかして」
懐かしい顔をしている謙の母親。僕には、それをじっと見続けることができるほどの心の強さはない。じっと見続けていれば、きっと僕にも懐かしさが伝染してくるだろう。そして、それは僕を悲しみの崖に追い込むだろう。この部屋では泣きたくない。まだ謙が生きていると信じたいから? それとも、泣くことが供養ではないことを知っているから? 理由はわからないが、とにかくこの部屋で泣きたくない。