web小説「願い」END

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「残念だなあ。私は、しっかり覚えていたよ。古西尊志。近東高校以来のIQの持ち主。それでいて、クールな人で、女の子と行くような食事の場所のわからない人。こんな程度だけどね。」

「ありがとう、覚えていてくれて。」

「うんうん、仕方がないよ。記憶喪失だったら。」
違う、そうじゃないんだ。俺は、彼女の名前を聞いたときから、瞬間、平林藍への想いを思い出したんだ。青い炎のように熱く、すべてを燃やし尽くすような、強い激情を持っていたことを思い出したのだ。もう、彼女への恋心は手に取ることのできる位置にあるんだ。彼女と一緒にいたい、彼女を少しでも長く笑顔でいさせたい。そう願っていた自分を取り戻したのだ。それが、どうであろうか。平林藍との過去の記憶を、彼女に言おうとすると、まったく話すことができない。わけがわからない。
「それじゃあさあ、改めて、自己紹介するね。」
彼女は意を決したように、顔を俺に向けた。ナイフのように鋭い視線が俺を突き刺す。
「私は、平林藍。あなたの命の恩人。」
頬の肉をクイッとあげて、微笑した。だが、その顔には決して惰性はなく、全力の顔であった。
「俺は、古西尊志。」
俺に言えることはこれぐらいだ。彼女に誇るものなど、サッカーグランドにハツカネズミがいないのと同じように何もない。いや、ただ一つある。口に出せるとしたら、誇るものは平林藍への想いの深さだ。俺は彼女を愛し、彼女に恋をしている。片思いだろうけれども、俺は彼女が好きだ。だから、次のセリフで、自分の能力を試す気になった。恋をうち明けられるかという能力を。こういう高等技術を要することを素直に平気でやってのけるのが、俺な俺だ。ギュッと、タバコを卓上の銀の灰皿にねじって消し、俺は目を細め、頭上に残っている天使のワッカのような煙に祈った。
「藍ちゃん。今日、ありがとう。今日、ありがとう。なんというか、うん、ありがとう。」

「気にしない。」

「そうだね。でも、一つ聞いてほしい。あの、藍ちゃんのことが好きだ。何と言っていいか、君といると、ものすごく、心がどきどきして、なんだか、スリルが体中を駆けめぐっているんだ。それがものすごく楽しくって。うれしくって。それでね。うん、これからも時々、ご飯でも一緒に食べて一緒にいてくれる?一緒に時間を過ごしてくれる?」

「唖然くらったな。古西君から、そういうセリフが出てくるとは思わなかったから。でも、ありがとう。すごくうれしい。一緒に、何かしていこう、これからも。」
平林藍に、少しも動揺の色はなかった。むしろ、待っていたかのような表情だ。それを見ると、明らかに俺の方が落ち着きがない。
「何もしてあげられないし、ダメな男だけど。つきあってくれますか。」
言葉を選ぶことなく、少しの体の拒否反応もなく、俺は言ってのけることができた。
「私のこと、好きなの?いいよ。でも、私でいいの?」
君こそ。俺の次の言葉は、それではなかった。彼女の可愛らしくふくよかな耳に向けて、好きだ、と言うだけで良かった。風の音も聞こえない、月の満ち欠けの音さえも聞こえない。そんな静かな夜だった。  失われた五覚。ふるえた唇。  失ったことすべてが身に帰ってきたわけではないが、俺はこの夜、代わりにもっととてつもないものを手に入れた。愛されること、でも、それ以上に、俺は愛する者を手に入れることができた。愛すると言うことができ、何よりも、それを思い出すことができたのだ。つまりは、俺を取り戻したのだ。最初に、タバコで癒していた恋への暴発は記憶の一部分を呼び戻させた。そして、白煙が取り巻き、俺は白煙に導かれるように、彼女への恋を告白したのだ。あのタバコというもの。俺はあれに、彼女を、平林藍を忘れるという願いをかけ、そして、彼女に愛を伝えるという願いをかけた。結果、一度は彼女への想いを消し去ったが、あの煙は俺を恋を届けるという願いの方向に導いたのだ。願いをすべてかなえてくれたのだ。  だが、俺はあの日、平林藍の前で、タバコを一本吸って以来、もう二度と口にしなくなった。あの日の朝の帰り道、タバコを青いポリバケツに投げ捨てて、煙との縁を絶ちきった。なぜなら、もう、俺には必要がなかったからだ。願いをかけることなぞ、ひとつもない。今はもう、あの煙の幻想に頼る必要などない。