web小説「願い」10

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吉川は拳を握ったままだ。近藤さんはドアに寄りかかり、こっちを真剣に見ている。俺は空を背景に、もう一度横隔膜を上げた。
「でなあ、思い出したよ。俺がこいつが吸い出した理由を。こいつの忘却作用に頼って吸い出したんだよ。何を忘れようとしたのかは、思い出せない。だが、吉川は知っているはずだよな。吉川、お前が俺を突き落としたわけに関連しているんだろ?吉川。」
最後に怒鳴った。大口から煙が気味よく立ち上がる。
「幸広さん。もし知っているんなら、教えてやってくれないかなあ。」
近藤さんが初めて口を挟んだ。
「何だ、古西。お前、落ちたときのこと、忘れちまったのか?そうか。俺にはタバコを吸い出した理由はわからない。だが、俺がお前を突き飛ばした理由なら、話そう。あのとき、俺は、嫉妬に駆られた。これまで、欲しいものはあらかた手に入れてきた。ただ、あの子だけはそうはいかなかった。香美ちゃんだけは、お前の方にいってしまった。」

「それで、俺を石段の上から突き飛ばした?」

「いや。ただ、それだけなら、俺は別段、お前を突き落とさなかった。そこまで、人間は小さくない。」
吉川はうつむいた顔を上げた。その目は一点をとらえていて、動くことを忘れているようだった。
「俺のお前に対して許せなかったのは、お前が、香美ちゃんの告白を断ったことなんだ。」
この言葉には、俺は頬が痩けていくような感慨がした。俺と香美ちゃんは婚約者同士ではなかったのか。鼻息荒く、俺は口を挟んだ。
「本当なのか、それ?」

「ああ、だから、お前を突き落としたんだ。俺から奪っておいて、それで断るんじゃな。どうにもやりきれなかった。」

「そうか。」
ヒョロヒョロと煙が大気を泳いだ。ふいに、拍子抜けした。あの香美ちゃんが、嘘ついた。しかも、婚約などという、ある意味、俺を馬鹿にした嘘をついた。俺が香美ちゃんに対して持っていた好意は何だったのだろうか。上を行く雲が、形だけの、食べることのできないウェディングケーキに見える。
「それじゃあ、香美ちゃんは古西君と婚約してないのね?そのときに、古西君は断ったのね?」
ええ、と、つゆ乱れなく吉川が答えた。頭の混乱した俺を前に、近藤さんがゆっくりと話をまとめだした。
「それじゃあ、香美ちゃんの方が古西君に告白した。でも、古西君は断った。そして、それに対して、腹を立てた幸広さんが古西君に手を挙げた。それでいいのね?」
再び重々しく、吉川は、ええ、と応じた。
「うーん、どうやら、幸広さんの話に嘘はないみたいね。だとすると、香美ちゃんと恵子ちゃんの話に嘘があるのね。となると、おそらく、こういう話になるわね。たぶん、あの二人のどちらかが、記憶喪失になった古西君をそそのかさそうと嘘の婚約話をでっち上げた。そして、それを古西君に信じ込ませた。」

「おそらく、そうなると思いますよ。」
吉川は平静に答えた。混乱してはいるものの、うっすらとだが、俺の頭は答えをイメージしだした。そう、偽の記憶なんだ。だから、土方も知らなかった。そして、婚約をしたという記憶もなかったんだ。俺は、記憶喪失といっても、それほど重いものにかかっていたわけではないんだ。俺は黙ったまま、屋上から火の消えたタバコを外に放り投げた。次第に小さくなり、それは形を失った。  部屋に戻り、難しい顔をしたままの俺はベットに腰掛けた。近藤さんが隣に座った。そして、顔を閉じたままの俺に、母親が子供に言い聞かせるように語りだした。
「香美ちゃんは、おそらく、あなたのこと、本当に愛しているのね。古西君、何で、それに応えてあげないの?」
質問は俺の体を震わせた。太股がブルブルと震え、抑えがまったく効かない。確かに、なぜ俺は。その理由は、いくら眉をひそめても、いっこうに浮かばない。
「わからない。でも、何かがあって・・・。」

「それを何で、思い出せないの?どうしてもっていう理由があるはずでしょう?これを思い出せなくっちゃ、君はここを退院できないよ。」
うん、うんと肯くばかりで、思い出せない。どうしても出てこない。
「うん、もう、いいよ。それよりも、なんて、このこと、香美ちゃんに話すかだよね。きついこと言うけど、それを話すのは、あなたの役目だよ。もう一度、はっきりと、断ってやんなさい。じゃないと、あなたも、そして、香美ちゃんも、二人とも、今の嘘の関係を続けたら、ダメになるだけ。いい、ちゃんと、明日、言うのよ。」

「それはわかっています、でも、何で、あんな嘘をついてまで、俺のことを好きっていってくれる人間を俺はふったんですかね?それが、本当にわかりませんよ。」
横になり、俺は重い目を閉じた。今日は、変に疲れる日だ。  次の日、香美ちゃんが恵子と一緒に見舞いに来た。
「今日も来てくれたんだ。ありがとう。」

「気にしないよーに、香美はあなたのフィアンセなんだから。」
明るい声で、恵子は俺に訴えた。今の俺は、それに口答えしなくてはいけなかった。
「俺さあ、記憶がだいぶ、昨日で戻ったんだ。」
この言葉で、二人にはすべてを悟って欲しかった。でき得るならば、ここで、自分たちから、ごめんなさいと言って欲しかった。だが、二人は、顔を見合わせただけだった。
「でなあ、俺たち、婚約してないよな。」
はっきりと俺は言った。他に言いようが浮かばなかったし、こっちの方が俺らしい。他にどんな言い方があるというのだろうか。
「そう、思い出したんだ・・・・。」
香美ちゃんは顔を両手で覆った。前にも、見たことがあるような気がする。
「思い出したんだ。それは、おめでとう。ゴメンね、だましちゃって。でも、香美はそれぐらい、古西君に真剣だったのよ。今、ここで、本当に婚約したら?」
恵子は落ち着いている。肝が座っているとは、こういう人間をいうのであろう。
「悪いけど。香美ちゃん、俺、どうして、香美ちゃんのことダメなのか、さっぱり思い出せないけどさあ。何か大切な理由があって、ダメだったような気がするんだ。ゴメンっていうよりも、俺はありがとう。そう、香美ちゃんには言いたい。ありがとう。」
香美ちゃんは部屋を飛び出した。思い出した。以前も、そうやって、彼女を走らせたことがある。確か、夜の公園でだ。あのときだ、香美ちゃんの告白を断ったのは。
「古西君、やっぱり、あなたはだましきれなかったわね。吉川の馬鹿が、アイツはものすごく切れるって言ってたけど、それはホントだったようね。ゴメンね、だまして。」

「いや、いいさ。もう、すんだことだ。それに、恵子ちゃんも、香美ちゃんのこと考えてやったんだろ?確か、最初に俺に香美ちゃんが婚約者だって言ったのは、恵子ちゃんだもんね。それに香美ちゃんはのっただけ。それだけのことだろ。」