web小説「願い」11

web小説「願い」11

俺は舌を少しだけ出して、唇をなめた。タバコが欲しくなったのだ。屋上に行こうと思い、俺はベットを立った。
「そうね、でも、香美のことを考えて嘘をついたんじゃないよ。私は私のことだけを考えただけ。吉川に、私もふられたの。吉川、香美のことが好きになったんだって。それで、香美があなたとくっつけば、その想いも消えて、私のところに、吉川が戻ってくるんじゃないかって。本当に、三文芝居だよね。」
恵子は苦しい笑いの中で、寂しさを漏らした。俺を突き落とした後の吉川の姿を、俺は恵子の中に見た。
「ああ、三文どころか三千リラ以下だよ。」
二人とも、まるで何もなかったように笑い飛ばした。
「さてと、屋上に行こう。香美ちゃんはきっとそこだよ。」
俺の言葉通り、香美ちゃんは屋上にいた。フェンス越しに遠くに見えるビル群を見ていた。
「香美ちゃん、コーヒーでもどう?」
俺はタバコに火をつけながら、ささやいた。
「香美、もう、十分、泣いたんじゃないの?仲直りしようよ。もう、古西君、気にしてないって。」
恵子の言葉は、慰めにしては慰めになっていない。その証拠に、香美ちゃんは微動だにしない。フェンスと一体化したように、緑色のフェンスにへばりついている。俺は適当なところに腰掛けて、悠々とタバコをふかし始めた。恵子はしきりと、香美ちゃんを振り向かそうとしているが、いっさい聞く耳持たずという状態である。そのうちに、恵子もあきらめて、その場に座り込んだ。  三人もいて、一人も一言も口をきかない。誰一人しゃべろうという意思の働かない空間が、都会の一隅に出来上がった。今なら、頭を空っぽにできるような気がした。うっすらと熱い光が肌を刺激する。それが、少し痛かった。  俺が五本目のタバコに火をつけたとき、恵子が窮屈な沈黙を破った。
「そういえば、ねえ、何で?香美のこと、ダメだっていう理由、本当に忘れちゃったの?」

「ああ、忘れちまった。」
恵子の顔なぞ見る気も起きなかった。空に見とれたまま、無気力に応えた。
「その程度のことなの?忘れる程度のことで、香美のことダメだって言うの?」
憤慨した様子で、恵子は言葉をぶつけてきた。
「ああ、そうだ、そうだ。俺が一度決めたことだ。正しいんだろ、きっと。」
俺はしゃべる気がないのだ。今は無駄な口を引っ剥がしてしまい、病室に置きっぱなしにしたいぐらいだ。
「でも、私は何であなたが香美のことダメだって言ったのか、その理由を覚えているよ。」

「はいはい。」

「あ、気のない返事なんかして。本当は聞きたくて仕方がないんじゃないの?」

「何を?」
俺は恵子のタワゴトなど頭から戯れ言と思っていたので聞いていなかった。
「え、聞いてなかったの?だから、何で、古西君が香美のことダメだって言ったのかってことを、はっきりと覚えているよって。」
頭の中に、恵子の言葉を一度素通ししたが、スイーとは入ってこない。二度、三度、そして四度目にして初めて、俺は言われていることの重大さに気づいた。同時にタバコの害悪も知った。
「は!俺は、何で、香美ちゃんのこと、ダメだって言ったの?」

「聞きたいんなら、最初から真面目に人の話を聞いていなさいよね。」
鷹揚な肩を狭めて、神経を萎縮させて、耳を押っ立てた。膝には、体重の半分がかかった手が乗っている。
「あのなんで、俺はダメと言ったの?」

「あなたには好きな女の子がいるんだって。それで、そんな半端なことはできないって。そう言ったのよ。」
語尾を強く発音する恵子の語調が、俺には耳が痛いほど響く。俺には、好きな女がいたんだ。好きな女。好きな女という語が、俺の記憶の空洞を、明かりを求めるコウモリのように駆けめぐる。コウモリたちは、月明かりだけが頼りの俺の思考にピーンと張った糸をもたらした。  香美ちゃんはそれから50分間、前髪をそよがせながら、フェンスにすがりついたまま黙っていた。恵子は何かをひっきりなしに口にしていたが、俺は恵子が話していたことを一つとして覚えていない。俺は俺で、ひっきりなしにタバコをふかしていた。必死になって、記憶の中で、好きな女の正体を探る旅をしていた。おかげで、タバコの吸いすぎがたたり、目が渋っていた。タバコのやりすぎは煙によって目をやられてしまうらしい。タバコの害悪の二つ目を、身をもって知った。体験によって、悪いことを悟る。困った癖だ。  寒くなったのと、香美ちゃんのことは恵子に任そうと思ったので、俺は何も言わずに、屋上から自分の病室にすごすごと戻ってきた。靴を投げ捨てるように脱ぎ、ベットの上であぐらをかき、目を閉じた。そして、胸に、目には見えない、心でも見ることも、ましてや幻想で追いかけることさえもできない、俺の好きな女の正体を想像した。しかし、いくら静かに念じようと浮かばない。瞬間、俺は思い出せないと悟った。というよりも、何か妙な痛みを頭に感じた。掘り起こしてはいけない、そんな気のする記憶なのだろうか。針金がひっかかったように、俺の頭に痛みがくる。俺は首を十字に振り、その痛みを振り払った。ため息が出るほど、俺は痛みのある記憶がこわくなった。だが、これを、この痛みのある記憶を戻さなければ、たとえ一つでも俺じゃない、偽物の俺として生き続けねばならないであろう。こわい。だが、偽物では生きたくない。俺は、いつまでも俺な俺でいたかった。目を開けて、ベットの格子につかまりながら立ち上がり、空気の入れ換えをした。外の空気は冷めついていながらも、本物ばかりだ。あの空の青もきっと偽物じゃない。ぺし、ぺしと窓枠を叩いては、リズムをつけて、俺は笑い出した。引力を感じる体を、その格子を叩く音のリズムに合わせて上下に揺らしながら。今でき得る精一杯の笑いを放出した。
「近藤さんを呼んでもらえませんか。」
笑顔な俺は病室の前をたまたま通り過ぎた看護婦さんに頼んだ。 表情のない、生きていない白衣の看護婦は、はい、という一言を置いて、またどこかへと消えてしまった。 振り払うものを睨み付けたままの顔で、俺は自分のベットに座った。腕を組み、組んだ右足をしっかりと左足につみ込み、両目をつぶって、近藤さんの来訪を待った。
「あら、お見舞いの子たちは帰ったのね。何か用?」

「ええ、今から、俺は退院しますよ。どうにも、もう、病院ですることはなくなったようだから。」
勝ち誇った顔で、俺は眉を45度に上げた。
「そう。でも、記憶喪失のほう、平気なの?」

「ええ、それを治すために、退院しようかと思って。」