web小説「願い」12

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web小説「願い」12

「自分の過去に対峙する気なのね。わかったわ。でも、いい?あなたはあくまで、まだ体が本調子じゃないのよ。それだけは頭に入れておいてね。」
確かに、俺の体はまだ本調子ではないだろう。だが、偽物を一刻も早く卒業したい。俺な俺に戻りたい。だから、退院をして、外にある事実をかき集めるのだ。 以前、香美ちゃんがしておいてくれた荷物整理が役に立ち、俺の退院準備はものの30分とかからなかった。近藤さんに礼をいい、俺は病室を後にして、屋上に上がった。
「恵子ちゃん、香美ちゃん、俺、退院するから。んじゃま、ごゆっくり。」
二人は、ぎょっとした目をして、俺の方に視線を放った。俺は打ち返すのでもなく、さりとて受けるのでもなく、サラッと柳のように流した。そうやって、俺は病院を後にした。とりあえず、俺は土方のところにお礼にいこうと思った。  土方の家は目黒だ。病院からは50分ぐらいの距離だ。体の本調子ではない俺には、かなり遠い場所ではあった。だが、少しでも早く礼を言いたかったから、病院を出たその足で俺は目蒲線に乗り込んだ。  目黒に着いただけでも、俺の体は重かった。すり傷がヒリヒリしているし、頭もガンガンする。とりあえず、バス停のベンチで休むことにした。俺はやり過ごすバスを見ながら、バスターミナルに人生を見た気になった。いつ来るかわからない、しかしいつかは必ず来る幸福というバスを待ちながら、人はゆっくりとたたずんでいる。しかし、バスの到来を待ちきれずに、歩き出す人間や、タクシーに乗り込もうとする人間がいる。人には各種いろいろな選択があり、知らず知らずのうちにそれを行っている。それの連環が今という時を形取っているのであろう。だが、今の俺のように、バスを待っている人たちを傍観している人間もいるのであろう。無意味に、バスを待つのでもなく、ただ休んでいる人間もいるのであろう。俺にはそれがいいのかわからない。わからないけれど、それはそれで俺らしく感じられた。それはとても愉快だった。  適当に休み、俺は痛みの治まった頭を立たせた。そして、エロチラシまみれの電話ボックスから、土方の家に電話をかけた。  土方は家で待っている。俺はその土方の待つ家まで、頭痛の再発を怖れ怖れ、歩みを進めていた。まわりのセッセカした動きを肌で感じては、そのせっかちさを腹で笑い、俺は漫然と歩く。だが、笑っていながらも、俺はそれに嫉妬していたのかもしれない。歩みの速い連中がうらやましかったのであろう。一歩先に、ハトの糞が落ちた。なんのことはない。俺の遅い歩調が幸いしたのだ。それが、歩みの遅い亀の俺のただ一つの幸運だ。  来訪の遅い俺を気遣って、土方は途中まで迎えに来てくれたようだ。土手沿いの道の遙か先に、土方が自転車を引いて待っている。俺に気づいたらしく、土方は手を振ってくれていた。
「オーイ、もう、平気なのか?」

「ああ。」

「なんだって?」

「もう平気だって。」

「ん?」
俺はでかい声を出すことを嫌った。それよりも無言で土方の方に少しずつではあるが近づく方が良かった。
「よく来たな、古西。うれしいぞ、元気になって。」

「お前は、俺の女か。刑務所の前で待っている俺の女か、お前は。」
二人は無言で顔を向き合わせ笑った。お互いが、お互いのことを気に入っている親友関係。俺は顔の、自然とホコホコしていくのがわかった。  俺たちは再会した道路のすぐ下の土手に寝そべっていた。今にも雨の降りそうな雲行きの中、俺はある一点に視線をかけ続けていた。
「なあ、俺のフィアンセ。あれ、嘘だったんだ。」

「そっか。」
土方は、あたかも最初から知っていたかのように素っ気なかった。
「でなあ、俺、思い出したんだ。香美ちゃん、覚えているだろ?あの子を、以前俺はふったんだって。そのときの理由がな・・・。」

「好きな女がいる、だろ?」

「なんで知ってんの?」
少なからず、俺は驚いたが、土方はほくそ笑んで言い放った。律儀なものには、律儀な理由があるはずだから、と。  土方の考えていることがわからなくもなかった。だから、俺は、ああ、としか。それ以上言わなかった。口がタバコを求めているので、俺は口にタバコをくわえた。そして、静かに火をつけた。風の強い土手っぴりでは、火さえも気持ちよさそうにそよいでいる。
「で、古西。その好きな女って、どんな女だ?」

「ふん、俺、それが思い出せなくってな。」
「そうか。それって、つらいよな。自分の好きなものがわかっているのに、その形がわからない。それをつかむこともできない。まるで、初恋への片思いだな。愛に恋する年頃か。」 フフン。鼻で笑ったのみで、俺は答えなかった。それが最高の答えであると信じたからだ。灰が風でとばされて、俺の頬についた。手で払う。すると、粉々の灰はどこともなく、風に乗せられていってしまった。  陽が傾いてしまった。土方に礼と別れを告げた。元気を振る舞って、躍動のある後ろ姿を見せて去った。そんな俺が、俺は好きだ。再び、俺は目黒に向かう。 しかし、行きとは違って、俺の足取りはだいぶ速かった。軽くなったせいであろう。背を伸ばして、俺はスクスクと目黒に近づいていった。町はもう目前ではなく、手の届く範囲にある。  物寂しさだ。人込みの中で、一人で歩いていると感じる気分。この感触が、俺には耐え難いときがある。嫉妬のような、気まずいような、そんな気持ちだ。孤独への面白くないという思いが、加速度に俺を孤独というカテゴリーに包み込む。そして、突然と今がそのときになった。それをごまかすために、俺は吸いたくもないタバコをポケットから取り出した。そうやって、俺は煙を巻いて、重苦しい俺の気持ちをごまかした。そのつもりだった。だが、俺の煙は俺を巻いたのではなく、俺の記憶を巻いていた煙と靄をいっそう深くしたに過ぎなかった。煙の立ちこめるタバコが俺の顔面すれすれを泳いだ瞬間。俺はアスファルトの地面に倒れ込んだ。ふいに、地面に会えて安心したような気になった。煙のつまったまま、俺は音を閉ざした。  気づいたとき、俺は喫茶店のソファアにでもいるのかと思った。茶色の革の、ずいぶんフカフカのソファアに横たわっていたからだ。起きあがると、頭にちょこんとのっていた水のタオルが、おでこから滑り落ちた。
「起きたのね。」
忽然と違う部屋から女の声がわいてきた。だが、その声はどこかで聞いたことのある、懐かしい声だった。
「ええ。あの、ここはどこですか?」
竹で編まれた衝立の向こうにいるらしい女に向かって、俺は声を出した。
「ここは私の家よ。急に、あなたが私の前で倒れるから、どうしたのかと思ったわよ。」
過労のせいで倒れたのであろう。俺は自分の体の不調を忘れて、目黒に急いでしまったこと、加えてタバコを吸いすぎたことを今更になって後悔した。
「どこか、体の具合、悪いの?」
心配した気持ちのこもった言葉が俺の耳に届いた。その声が、俺の鉄鋼色したひねくれ精神を叩いた。この人には、正直に病状を言わねばならないような衝動に駆られたのだ。  俺はある限りの話をした。なぜ、あそこで倒れたのか、最近の具合の悪さとか、そういったことをなるべくはっきりとうち明けた。
「そうだったの?大変だったねえ。記憶喪失にはかかるし、婚約者の偽物も出てくるし。いやはや、なんとも忙しいねえ。」
女は何をしているのか、いっこうに顔を出さない。だが、声は聞いたことがある。さっきから考えているのだが、その声の持ち主の顔がいっこうに浮かばない。なんとも、もどかしい。爪が長ければ胃を貫きそうなほど、俺は胸をかきむしった。
「ねえ、ご飯食べていくでしょ?うち、お父さん遅いって言ってたからさあ、一人で食べるのも味気ないしさあ。いいでしょ?前の約束もまだ果たしていないことだし。」
前の約束。俺はやっぱり、この女に以前会ったことがあるんだ。しかも、何かの約束をしたらしい。
「え、前の約束って?」

「とぼけても無駄よ。私に、ご飯おごるって言ってたでしょ?元気出せよとか、カッコつけて言ってたじゃない。忘れたの、もしかして?」

「記憶喪失になったって、俺、言ってなかったっけ。」

「ああ、そうだったわね。すっかり、忘れていたわ。ごめんなさい。っで、ご飯、どうするの?」
誰とも思い出せない人とご飯を食べるのか。俺は気乗りがしない。しかし、記憶を回復させることの手助けになるかもしれない。今の俺の目的は、記憶を取り戻すことだ。俺の愛する女を思いだし、その焦げ付くような愛に近づくことだ。それが、願いなのだ。だから、結局、俺はここに残り、共にご飯を食べながら、昔の俺の話を聞くことにした。
「ああ、いただいていきます。いいの?」