web小説「願い」13

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「ぜんぜーん、気にしないで。それどころか、うれしいぐらいだよ。この町で、一緒に食事ができる人って、あなたぐらいしかいないもの。」

「へー、そうなんだ。」
どうやら、俺は彼女とものすごく親密なようだ。声には聞き覚えがあっても、肝心なことに、彼女が誰であるかということの認証がなされていない。俺は何度となく記憶の記念アルバムをヒモ解こうとするのだが、なかなかうまくいかない。そうするうちに、思い出そうとする行為が、急激に、頭を締め付け始めた、まるで孫悟空の頭にある金のワッカのように。とりあえず、俺はもう一度、ソファアに横になり、少し頭を休ませた。そうして、眠りの盛りに俺は導かれていったのだ。  いい匂いが嗅覚を封じた。食欲をそそる肉の香ばしい匂いだ。コショウたっぷり、肉汁のあふれるようなコンガリステーキの臭いだ。クイッと、俺はてこのように起きあがった。そして、食卓に並べられている肉を見ては、飲み込んでも出てくる唾液の誘惑と戦い始めた。流れる唾液の通路には、言葉などいっさいなかった。
「あのー、手を洗いたいんですが、洗面所どこ?あ、それと、トイレもどこ?」
声の裏返りを気にしながら、ソファアから立ち上がった。
「トイレは洗面所と一緒の部屋なんだけど、洗面所は、いまだめ。洗濯物散らかってるから。今すぐかたすから少し待ってて。」
気の短い尿意は腹を立てているようだ。膀胱の膨らみを感じる。ベルトが急にきつくなったようだ。  五分くらい後、彼女の許可が下りた。俺は満員電車に駆け込むサラリーマンさながらに、ドアを急いで開けた。そこには、彼女がいた。どうぞっというふうに、手をさしのべている彼女が、洗面所の鏡に映っている。その顔には確かに見覚えがあった。  尿意の要求を受け入れ、俺は尿を解放して、洗面所でディナーのための手を洗うことにした。水道水が透明に見えた。そうして、鏡に映っている自分の顔を撫でながら、はて、あの子の名前と、俺との関係はなんだろうと、首をひねった。いくら考えても、答えは浮かび上がらない。まるで、中学生の定理を忘れてしまった数学のテストのようだ。いくら考えてもダメだ。トイレに長く居てもおかしいので、俺は考えるのをそこそこにして、食卓のある部屋に戻った。料理から立ち上る湯気が、部屋の暑さを象徴していた。  まめまめしい彼女の行動を見ていると、まるで彼女と自分が夫婦のような錯覚にとらわれた。無能な何もできない夫に、それをしっかり支える妻。そんな関係に俺は酔った。落ち着くという感覚はこういうものなのであろうか。俺はそんなことを、ポカンと頭の上に浮き上がった吹き出しに書き込んでいた。  最後の皿を並べ終えた彼女は、俺の対面の席に座り、放心状態の俺の目を覗き込んできた。
「どうしたの?まだ、眠いんだ。」
いや、そんなことはないさ。ただ、君が誰なのか、そして、俺たちが夫婦だったらって、思っていただけだよ。そう言いたい衝動を抑えた俺は、眠い、まだね、と短く言った。
「でも、眠いからって、ご飯のときは寝ちゃダメよ。スープに顔をつっこんじゃうよ。」

「そうだな、そしたら、この美男子がダイナミックに台無しだもんな。」
そうだね、はははは、と笑う声の彼女。ほほえましいふざけあいに、俺の顔はほころんだ。食事の最中、俺は大きなあくびを出すことをためらい、時折、口の近くに手を持っていっていた。どうやら、その仕草が気になるらしく、彼女は俺に、口に合わない?とたずねてきた。まずくって口を押さえているのだと、早とちりをしたらしい。俺は、素直に、あくびが出るのを隠しているだけだと言う。二人が目を合わせては、自分の食事をとり続ける光景が、街灯に照らされている窓ガラスに映っている。  食事を終えたとき、俺は疑問を解決するのに、もっとも良いであろう手を考えついた。やはり、直接に聞くのが良いであろうと悟ったのだ。なんとなく、彼女ならわかってくれそうな気がした。そんな気がしても、俺の中には照れがあった。だから、タバコを手に取り、許可を求めることによって、会話の糸口をつかもうとした。
「ねえ、タバコ、吸ってもいい?」

「うーん、一本だけね。」
タバコを口にくわえ、ふるえている手で揺らめくライターの火をタバコに持っていった。煙さえも揺れている。そして、タバコの酔いに適度に頭がクラリといったとき、客観的には思い出したかのように、俺は尋ねた。
「ねえ、俺と、君との関係ってなんだっけ?」
震える声が喉を揺れて通った。
「私たちの関係?うーん、なんだろうね。ここでの、一番最初の私の友達。うーん、だと思うけど。もしかして、私の記憶ないの?」

「ごめん。」
俺には謝るしかない。寂しそうなふくれっ面を見せた彼女は、皿をまとめる動作をしながら、俺の視線とのぶつかり合いを避けた。
「私は、平林藍。この前の、卒業式の日に、あなたとは初めて会った。初めて会ったのに、賢いなあって、私に初めて思わせた人よ。」
平林藍。頭の中に、その単語が飲まれたとき、血液が心臓を破るような気がした。彼女は、平林藍。俺は妙なほどの気分の高揚に、自分の記憶の復興の日ざしを感じた。その強い日ざしは、今の俺には強すぎたのかもしれない。ふいに、言葉を失ってしまった。石のハチ公犬のように黙りこくり、青銅の小便小僧のように魂を失ってしまっていた。だが、記憶が体中に沸いてくる。まるで、記憶のダムが開かれたように、一気に記憶の流れが開放された。俺はその流れの中で、平林藍への思慕を見つけた。煙の先、寸先に、俺は完全な恋心を見たのだ。
「ね、思い出したでしょ?」

「いや、思い出していない、思い出せないんだ。」
否定した。なぜかは、わからない。なぜか、事実と逆のことを平林藍に伝えた。
「イーや、その顔は何かを思いだした顔よ。嘘をついていないで、白状しなさい。」

「いや、嘘じゃなくって。」
不思議だ。嘘をつく必要もないのに、俺は反射的に思ったことと反対のことを口走った。強がっている。これはこれまでにないことだった。これも、頭を打ったときの後遺症の一つであろうか。
「本当なの?」

「ああ、そうだ。」
やっぱり、そうだ。平林藍に会ったことがあるという記憶があるのに、どうしても彼女に対して告げることができない。彼女に対して言おうとすると、常に、否定的なものとなってしまう。