web小説「願い」6

web小説「願い」6

「信じられない。隠してるんじゃないの?恥ずかしい仕事で。」

「ふん、そうかもね。」
たとえ、俺がやりたい仕事があって、それが本当に口に出すことが恥ずかしい仕事でも、安田みくになんか言うつもりはなかった。ましてや、俺にはやりたいことなぞない。
「オース。土方。俺を捜してるんだって。」
階段を上り終えると、目の前にちょうど土方がいた。
「じゃあ、古西君、私帰るから。それじゃあ、ばいばい。」
安田みくは一階に上がると、その上がった足で、影を失った校門の方に向かって駆け出していった。
「安田みくと、お前。仲良かったんだ。それは知らなかったな。」

「いや、別に仲がいいわけじゃない。単に、宮城さんに呼び出されて、そこで一緒だっただけだ。」
刈りあげを掻きながら、俺は答えた。
「それで、何の用で俺を捜してたんだ?キジに言われたんだけど。」
土方は急に顔をしかめた。
「うん、あのな、お前が吉川とつきあっているって話を耳に入れたからな、それで言っておこうと思ってな。これは親友として言わせてもらう。あいつには、関わるな。特に、女関係で関わるな。あいつ、女のこととなると、見境がない。」
ホーと鳴くフクロウのような顔をして、俺は聞いていた。土方が人のことについて、とやかく言うことが珍しかったからだ。土方は滅多に人物評価をしない寡黙な奴だ。そして、一本気で、義侠心の強い男だ。俺はそんな土方に好意を持っていた。
「四組に本田っているだろ?あいつ、前に顔にでっかいバンソコ張ってきたことあったろ?」

「ああ。どっかの階段から落ちたとか。でも、大したケガじゃなかったヤツだろ?」
土方は眉をひそめ、しかめっ面をさらにしかめた。
「ああ、ケガはな。問題は、あれが、俺の聞いた話だと、吉川の仕業らしいということだ。何か、吉川の女に手を出したとか出さないとかで、もめたらしいんだ。それで、吉川に突き落とされたらしいんだな。あいつ、本当にキレたら、何をしでかすかわかんねー。本当だぞ。」

「ご忠告、センキュ。でもな、吉川だって、わざとじゃないだろ?わざとだったら、本田も親か先生にでもチクって、吉川に仕返しをするだろう?」

「それがな、本田は完全にビビっちゃって。今じゃ、吉川が近くに来ると隠れちゃうぐらいだ。あのビビりようは、完全に吉川にやられた証拠だよ。」

「そうか。でもなあ、吉川がなあ。」
俺は土方の言葉を信じなかったわけではなかったが、吉川のことを信じてやりたい気持ちもあった。それに、俺には吉川に狙われる要素がない。
「だいじょーぶだって。吉川は俺には何もしないさ。俺には、やられる理由がない。」

「そうか、でも、つきあうのは止めろ。あいつの近くにいると、お前まで、そういう奴に見られるぞ。」

「ああ、わかった、わかった。」

「おい、本当の話だぞ。あいつの考えていることはわかんないからな。いいな、奴とは関係を絶て。これが俺の忠告だ。」
ひそめた眉は俺に言葉通りの行動を強要していた。  下校路、俺は歩いて家に向かっていた。この間歩いて帰ったら、妙に気持ちが良かったからだ。この間の下校とは違って、俺は完全に一人で、影さえも連れずに歩んでいた。正面からぶつかってくる漆黒の風が心地よい。  土手沿いの道は、気を使う必要がないので、ゆっくりと考えながら歩ける。自分のしたいことのなさを思いながら、ポケットから出したタバコに、百円ライターで火をつけた。立ちこめるタバコのニオイが、俺のモヤモヤを包んで隠していく。俺はもうかれこれ、一週間ぐらいこれに頼っている。これがなければ、たまらなく平林藍に会いたくなったり、自分の先のことを考え込んでしまう。どちらも自己嫌悪を覚醒させ、それが俺にとってはこの上ない苦痛だった。  だいたい、妙な二律背反がある。平林藍に会いたい。会って、恋をうち明けたい。でも、それをしたからといって、彼女に何もしてあげることはできない。かといって、何かをしてあげられるようになるには、彼女を忘れて、勉強に身を任せねばなるまい。だがそうすれば、彼女と一緒にいることさえできない。それに何の勉強をすればいいというのか。何を学ぶことが一番俺にとって、彼女に恋をうち明けられるようになる立場になることに近いのであろうか。わからない。  だが、これらの妙な二律背反の答えはすでに出ていた。その答えは、平林藍を忘れること。そして、適当な勉強で、適当な大学に入り、適当な会社にはいること。それが良いと思うようになっていた。けれども、それは良い選択のように思えても、感情的には嫌いだった。俺は、わがままに生きたかった。しかし、とにかく、忘れねばなるまい。平林藍だけは忘れなければ、俺は恋という罠に足を取られてしまう。  俺は平林藍の記憶、そして想いを白煙という形で吐き続けながら、土手を歩いていく。時折、何かを置き忘れてしまったかのように、ふっと立ち止まる。そして、また急に歩き出す。それを繰り返しては、一歩一歩自分の家に進んでいた。  家の前で流れる視界が止まった。吉川が待っていたのだ。
「どうした、吉川。何か用か?俺今、頭痛いから、明日にしてくれないか。」
タバコの吸いすぎで、ヘロヘロになっていた俺は吉川と話をする気にはならなかった。
「悪いな、今日中に話したいんだ。ちょっと、そこの神社まで一緒に来てくれないか。」
怖ろしいほど明るい声だった。俺は仕方がないという感じで、やむなく首を振った。また、タバコの本数が増えるな。俺は心の中で舌を出した。  二人で、近くの帰陣神社に向かう。俺の家からすぐにある神社だ。もっとも、俺は一度も行ったことがない。境内にはいるまでにある階段が、急で高いので、登る気になれないのだ。今日、その階段を上ることになるとは、思ってもみなかった。何があるのか、先のことはやはりわからない。  俺は吉川の後ろにしたがって、急な石段を登り終えた。フーと息をつき、呼吸の乱れを直そうとする。タバコのせいだろうか、呼吸が浅いのは。先を歩いていた吉川は賽銭箱の横の朱塗りの木製階段に腰をかけ、俺に手招きをした。
「で、何だ、吉川。」
吉川は無言だった。何も答えがない。虫の生活音がただノイズのように流れるばかりだ。そういえば、吉川は神社の境内に入り、賽銭箱の横に座るまで、一度も声を出していない。変な奴だ。
「おい、吉川、何の用だって、聞いてんだよ。」
意を決したように、吉川は鉛のように重い唇を動かし始めた。それはオルゴールの鳴り始めのようにゆっくりだった。
「実はな、俺。昼間、恵子と別れたんだ。理由は、簡単だ。恵子に俺が飽きたわけでも何でもない。俺に好きな女ができたからだ。でな、その好きな女の名前がな。香美っていうんだ。お前の知っている女だ。お前にベタ惚れな、あの女だよ。」
今度は俺が無言だった。黙って、静かなこの現実に溶け込んだ。時折、下のアスファルトを走る車が、ヘッドライトで光を発するのと、走行音を出すだけで、カーテンに遮られた部屋のように闇で、静かだった。
「でな、恵子にそれ言ったんだ。そしたら、恵子はなんて言ったと思う?香美だったら、あんたになんか興味ないよって。あんたがどんなにかっこよくって、頭が良くって、金持ちだって、性格がどんなに良くったって、絶対あんたのことを当分は好きにならないよって言うんだ。俺は、ほざけと思ったね。どうせ、捨てられた女のくやし文句。そんなことだろうと思ってた。実際、目も、あいつ潤んでたから。でも、違った。あいつの、この後継ぎ足した言葉が俺をここに来させたんだ。」
吉川は地面を激しく指さしながら、声を荒げた。
「『あの子は、この間、古西君にふられちゃって、恋なんかする気にならないよ。最近、学校でも全然元気がないんだもん。』ってな。そう、恵子は言ったんだ。それって、嘘だよな、古西?本当の話じゃないよな?」
家の前で聞いたような明るい声に戻っていた。しかし、妙に明るい声が俺には怖ろしく感じられた。嵐の前の静けさを連想させた。
「事実だ。俺は確かにふった。でも、それは・・・」

「事実なのか。嘘とぬかせ。古西、お前、最低な人間だな。」
俺はお前と同じ理由で、好きな女が他にいるから、香美ちゃんをふったんだと大声で抗おうとした。だが、それを言った瞬間、俺は平林藍を忘れようとしている自分を裏切ることになる。それは大罪だ。俺は黙ったまま、吉川の出方をうかがった。
「サイテーだ。あんなにかわいい子を。あんなに気の優しい子を。だから、俺はお前にあの子を会わせたくなかったんだ。やっぱり、最初から俺が口説くべきだったんだ。」
隣から吉川が立ち上がった。そして、震わせた肩で、賽銭箱のまわりをぐるぐると歩き回り始めた。まるで、何かを待っているかのように。  俺はそんな吉川の様子に、土方から言われた言葉を思い出した。確かに、こいつはやばい。何をしでかすか、わかったもんじゃない。食ってかかられる前に、俺はこの場を逃げてしまいたくなった。
「それだけか、吉川。俺は行くぞ。」
怖さをおくびにも出したくなかったので、強がってわざと低い声を出した。怖さを押しつぶしたつもりだった。
「それだけか、だって。ああ、それだけだよ。とにかく、お前はサイテーだ。そして、俺はそんなサイテーな奴が大嫌いだ。サイテーな人間は報いを受けるべきだ。俺の報いをな。」
急にでかい声を出し始めた吉川の表情は野獣と化していた。吉川に理性のかけらなぞ、顔のどこの部分にもひっかかっていなかった。
「何で、香美ちゃんをふったんだ。何でだ?とりあえず、そのわけを俺の納得するように説明してみろ。」
吼えた。吉川の吼えを迎えるように、夜がいっそう静かになった。
「理由か、俺もお前と同じ理由だ。」
俺も対抗するため、子供を守るために大きな獣に立ち向かう小動物の親のように大きく吼えた。なぜか、ここで一歩たりとも引きたくなかった。
「お前が香美ちゃんを好きになって、恵子ちゃんをふったように、俺も平林藍っていう女が好きで、香美ちゃんをふったんだ。わかるだろ、それなら。」

「それじゃあ、その平林っていう女のところにいくんだな?」

「いや、彼女に近づく気はない。確かに、好きだが、今の俺のできるべきことじゃない。」

「何でだよ?好きなら、好きな奴と一緒にいればいいじゃないか。」

「そんなんじゃ、俺は満たされないんだよ。一緒にいても、何もしてあげられないんじゃな。いくら好きでも、今の俺じゃ何一つしてあげられない。だから、何かをしてあげられるようになるまで、俺は彼女のことを忘れるんだ。それがなあ、俺の今、ただ一つの願いなんだよ。」

「それじゃあ、香美ちゃんの願いはどうなんだ。お前にふられた彼女の気持ちは?お前が、ふってまで好きだっていう女のところにいくんなら、気持ちも収まるだろうけど、お前。そうでもないって、一体香美ちゃんの気持ちはどうなるんだよ。なんなんだよ、その態度。」

「煮え切らないか。でもな、とにかく、俺は平林藍のことも、香美ちゃんのことも忘れて、大事な人に何かをしてあげられるような俺になりたいんだ。そのためには、忘れなくっちゃいけないんだ。忘れなくっちゃな。忘れるっていう願いを俺はかけているんだよ。そうじゃないと・・・。」
吉川を、そして発言している自分をも納得させるように、喉に言葉を通した。
「そうじゃないとな、成長もできやしない。俺は半端に物事をしたくない。今は、受験勉強をしなくっちゃ、大切な人に、何もしてあげられないような人間になりそうなんだよ。俺はそういう人間だ。」

「そんなのは、お前の勝手だ。」

「勝手だろうと何であろうとなあ、忘れるって決めたんだ。それが俺の願望だ。それが一番いいんだ。きっとな。」
また、自分を納得させながら、俺はしゃべっていた。突如、それに気づいた自分が、吉川の立場に立ちたがっていることにも気づいていた。だが、そんな自分を俺は、次の言葉でばっさりと叩ききった。
「忘れるんだ、俺は。平林藍を。」
吉川に告げるのではなく、自分に言い聞かせた。
「お前は勝手だ。お前の勝手で、香美ちゃんは苦しむんだ。苦しんでいるんだ。そうだ、すべてはお前のせいだ。」
トーンの下がった吉川の声が、俺の頭にこだました。そう、俺の未熟さがすべての原因だ。そんな思考が俺を支配した。  次の瞬間。吉川の行動を予想していなかった。吉川は俺を殴ったのだ。右から、頬に激しい一発をくらった。俺は痛みよりも、ふいさに驚きを感じた。そして、驚きは次の瞬間、例えられないほどの怖さに変わった。
「おい、立て。古西、お前の希望通り、すべて忘れさせてやるよ。お前はそれがお望みなんだろ?結構。かなえてやるよ。」
そう笑いながら言い終えると、吉川は、殴られて呆然としている俺を立たせた。闇の深くなっている石段の方に引っ張っていく。吉川の形容しがたい目の光りのせいか、体はいうことを聞かなくなっていた。引っ張られるままに、俺は石段の方に体を移動させていく。
「さてと、ここから落ちたら、全部、忘れられるぞ。ははは、それがお望みなんだろ?古西、それが望みだろ?なあ?」
高笑いをしている吉川は、妙に落ち着いているようにも見えた。だが、襟首を捕まれ、顔を間近に引っ張られた俺には、その目がはっきりと血走っているのがわかった。吉川に対する怯え以外の何かが、抗おうとする自分の体を押さえつけている。どんなものかはわからない。俺の体から力を奪っていくのだ。  そう。ここから落ちたら、記憶が消えるどころではない。死んでしまう。落とされる前に、抵抗しなければ。そう思ってはいるが、意志とは反面、体は動こうとはしない。そうか。吉川に身を任せさせている何かとは、吉川に突き飛ばされるのを待っている自分のかもしれない。  何の抵抗もせずに、俺は石段を転がった。突き飛ばされた瞬間、俺は吉川をつかむことができた。だが、俺はそれをせずに、石段を転がり落ちていった。俺は待っていたのかもしれない。こんなふうに、すべてを忘れられる機会を。転がりながら、俺はそう思った。そして、忘れようと思っていた平林藍の笑顔が、回っている記憶の中で鮮明に浮かび上がってきた。そして、この瞬間、自分では忘れようと努めても、アイツを忘れることは無理なことだということが、はっきりとわかった。良かったんだ、これで。忘れられないもの一つ忘れるよりも、すべてを忘れてしまう方がずっと楽だ。そっちの方が、どんなに苦しまないか。てっとりばやく解決するか。  流れていく石段。体が止まった。思考も止まった。意識は流れた。  ただ、耳元で。  白いシーツの上に、俺は横たわっていた。寒くも熱くもない。ただ、どうにもこうにも、頭が痛い。なんだか頭中に針を突き立てられ、それを一本一本いじられているみたいだ。首を起こそうとするだけでも、頭が刺すように痛かった。ベットの上に座り直した俺は、クリーム色の空間にいることを自覚した。どうやら病院にいるらしい。それは、ベットの先についている検診表でよくわかった。
「あら、起きたの?頭、だいじょ-ぶ?」
目の前のドアが開き、白いロングスカートの女の人が叫んだ。
「ええ、まあ。あの、ここはどこの病院なんですか?」