web小説「願い」8

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「なんともないといいが。」
何かあったら、大変なのはこっちだ。そう簡単に何かあってたまるものか。 俺は寝返りを打つフリをして、みんなのいる方とは反対の方に顔を向けた。
「みんな、来てたのね?いらっしゃい。さて、古西君は寝てるのかな?」
今度は近藤さんが来たようだ。
「ええ。」
事務的に恵子が答えた。
「それじゃあ、起こしてくれる?検査の結果、ちょっとはやいけど出たのよ。」
検査の結果が出た。ケッカという言葉が、俺の頭の中にカタカナとなって浮かんだ。俺は少し聞きたくなかった。このまま寝たフリをして、聞かないですむのなら、それはそれで良いような気もした。  まわりには、妙な緊張が走っているのがわかる。空気がピリピリと顔を刺す。ふいに、土方が俺を呼び始めた。
「おい、古西。起きろ。」
俺はばれないように、眠そうに目を開けながら、みんないたの?という顔をした。
「検査の結果が出たのよ、古西君。あなたはどうやら異常なしよ。」

「どうやらって、近藤さん、異常ないならないってはっきり言ってくださいよ。」
俺は喜びのあまり、寝起きとは思えないような声を張り上げてしまった。
「うーん、記憶喪失の可能性があるのよ。」

「え、どういうことですか?」
香美ちゃんが早口で心配そうにたずねた。
「うん、検査には引っかからなくても、記憶喪失は内部的なものだから、異常がないとは限らないのよ。何か、わからないことない?思い出せないこととか。」

「いえ、別に。」
そうは言ったが、心当たりがないわけではなかった。俺に記憶喪失。確かに、なぜ、吉川に突き落とされたのかはわからない。わからないというか、たぶん、落ちたショックで忘れてしまったのだろう。それに、あのフィアンセの件。たぶん、あれも忘れてしまったのだろう。
「じゃあ、これからテストをします。一つ一つ、答えてください。」
恵子が急にそんなことを言い出した。俺は、面倒だと言って、断ろうとしたが、他のみんなも試してみようと言い、結局、それに押し切られる形で、愚にもつかない記憶テストが始まった。
「あなたの名前は?歳は?」

「あのなあ、普通のことは大丈夫だよ。名前は、古西 尊志。歳は十八。」
という具合に、みんなの、愚かさの絶頂を越える、質問の波が押し寄せてきた。俺は辟易しながら、一つ一つ答えていった。
「さて、じゃあ、最後に、あなたのフィアンセの名前は?」
恵子が明るい声でたずねた。
「え、それは、ちょっと。」
俺には、これは答えられない。思い出せない。そうして俺が黙っていると、恵子が耳打ちをした。
「ほら、前に立っている香美でしょ。あんたが、コクったんでしょ、好きだって、結婚してくれって。」
俺は目玉が飛び出るほど驚いた。俺はそんな約束してたんだ。
「本当か、恵子?」
小さな声で、恵子はうんと言った。
「俺のフィアンセは、香美ちゃん。そうなのか、香美ちゃん?」
香美ちゃんは、ええと、うつむきながら返事をした。照れているようだ。どうやら、これは本当の話らしい。
「フィアンセなんだ?土方、この話、本当か?」
土方に聞いてはみたが、土方はそれを知らなかった。そういえば、考えてみると、なぜ、土方と香美ちゃん、それに恵子が一緒にいるのであろうか。俺は土方にそれをたずねた。
「ああ、それはな、お前が、石段から落ちたとき、実は、俺はあそこにいたんだ。俺は吉川の後を付けていたんだ。お前のことが心配でな。そしたら、この二人もお前のことを付けていて、偶然その時に一緒になったんだよ。それで、この騒動だ。それで、わけもわからぬまま、友達みたいになったわけだ。」
なるほど、そういうわけか。しかし、土方の情の強さにはありがたかった。そこまでして、俺のことを考えてくれていたと思うと、ものすごくうれしかった。俺には、そのうれしさを露骨にみんなに見せるほど度量がない。だから、にやけて仕方のない顔を布団の中へと誘い、眠そうなフリをした。気づいたら、俺は本当に寝入っていた。  起きると、みんなはいなかった。そばで座って居眠りをしている香美ちゃんがいるだけだった。俺は自分の毛布を彼女の肩に掛けた。そして、窓沿いに立ち、外を見続けた。この子が、俺のフィアンセなんだ。かわいいな、香美ちゃん。鶴田真由似なその唇から、肉の熱い息が漏れている。寝息だけがこの部屋の音だった。奇妙な時間。  だが、俺は寝息を止めてしまった。ベットに戻るときに、毛布を足に引っかけてしまい、その摩擦で、香美ちゃんを起こしてしまったのだ。ヌンという寝ぼけた声がたまらなくかわいい。
「ふぁーあ、寝ちゃった。起きたのね、古西君も。」

「ああ、起きた、起きた。でもなんか変な気分だよ。こうやって、あの高い石段から落ちたら、急にフィアンセできてるし。」
すり傷の手で、俺はダイナミックに、落ちる仕草をしてみせた。そして、俺は俺の愛すべきフィアンセに微笑みかけた。俺のフィアンセは目が合うと、目を伏せてしまった。どうやら、相当に照れているようだ。香美ちゃんは、顔を両手で覆い、走るように外に出ていった。俺はその仕草から、形容しがたい奇妙さを受けた。クリーム色の塗装が、蛍光灯の光を反射している。  少しの間、俺は香美ちゃんの飛び出していったドアを見ていた。そして、首を傾げてみた。唇をとがらした俺はベットに再び横になった。すると、すぐに、近藤さんが部屋に入ってきた。
「どうしたの、あなたのフィアンセ。顔を伏せて、トイレに駆け込んだけど。あなた、何かしたの?」

「何もしていませんよ。できるわけないじゃないですか。」

「そうね、でも、不思議ね。フィアンセのこと忘れてしまうなんて。普通、忘れないわよね。」
近藤さんはいやらしいまなざしで俺を刺した。俺の男を疑っているらしい。
「そうですね、でも、忘れてしまったことは仕方ないじゃないですか。」
開き直った俺は強い口調で、その目を突き返した。
「でもね、あなた、あの子のこと、好きじゃないんじゃないの?」

「そんなこと、ないですよ。フィアンセですよ。好きに決まっているじゃないですか!」
大きな声で、俺は叫んだ。静かな部屋にこだましている。
「そう、ならいいんだけど。何か、あるんじゃないかなあって思って。」
近藤さんはびっくりしたのか、少し声が裏返っていた。
「じゃあ。明日ね、はやくお休みなさい。フィアンセの荷物は、私が持ってくから。いい、フィアンセが来たら、事務所に来るようにいってちょうだい。」
にやっと笑い、肯定を示した。香美ちゃんが来たら事務所に行くように告げて、俺はそのまま、横になったまま、再び眠りに導かれていった。  翌朝、俺の寝覚めは最高だった。起きると、隣にはもう香美ちゃんが来てくれていた。まるで、仲むづまじい新婦のように、ずっと付き添ってくれている。俺は香美ちゃんの献身さが嬉しくて仕方がなかった。
「ありがとう、香美ちゃん。今日も来てくれたんだ。」