web小説「願い」9

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「当たり前でしょ、奥さんよ、私は。」
二人は見つめ合い、永遠のような今、笑った。おかしいのでも、面白いのでもない。二人が二人でいることがたまらなくって、笑ったのだ。香美ちゃんの後ろに見える曇りがちな空は、妙に重々しかったのが気がかりだった。
「今日の午後には退院だって。だから、部屋の片づけをしておいてくださいって。近藤さんがさっき来て言ってたよ。だから、古西君は着替えてさあ、退院の準備をしよ。」
言われるままに、俺は着替えを始めた。そして、ものの五分で着替えられ、退院できるまでにもなった体がほほえましく思えた。疲れも、痛みもほとんどない。爽快そのものだ。着替えを終えた俺は部屋を整え、早々に荷物まとめにかかった。
「古西君、落ちていたときに着ていたヤツだけど、どうする?」
ところどころ破れた制服を俺は見た。俺の代わりに石段にすれ破れたのだ。手術の時にハサミで切られた跡もある。どうしても俺はそれを捨てる気にはならなかった。俺の身を守ってくれた制服に、俺はその思いを捨てられなかった。俺はこっちによこすように香美ちゃんに言い、手元に渡してもらった。  制服のポケットに手をやり、所持物の確認を始めた。すると、定期、タバコとライター、財布、ハンカチが出てきた。この中で、俺が不思議に思ったのは、タバコとライターだ。俺は以前タバコを吸っていたのであろうか?記憶には全くなかった。
「ねえ、香美ちゃん、俺って、タバコ吸うっけ?」

「吸ってたわよ。しかも、すーごいヘビースモーカー。」
病棟のザワザワが近づいた。
「へエー、忘れちゃったよ。そうなんだ。」

「やっぱり、記憶喪失らしいわね。まるで、何かにとりつかれたみたいにタバコ吸ってたよ。」
まじまじとグシャグシャになったタバコを見つめる。そして、ライターを手に取り、幾度か火をつけた。シュボ、シュボ、シュボ。既聴感。しかし、それは当然だろう。愛煙家だった過去の俺からすれば、よく耳に入れていた音なのだから。だが、一方では、それは何ともいえない、のどの奥がかゆみをおぼえるような、そんな既聴感だった。
「病院では禁煙よ。未成年の古西君。」
ライターとタバコを手にして、海坊主がごとく立っている俺に、急に現れた近藤さんが注意した。皮肉の覆い被さった言葉で、俺にタバコを止めることをたしなめている。
「わかってます。」

「そう、ならいいんだけど。」
タバコとライターをジーパンのポケットにつっこみ、俺は近藤さんの顔を見た。次の言葉を待つためではなく、この近藤さんの顔を忘れぬためだ。退院するに当たって、お世話になった近藤さんの顔を忘れぬように、よく見ているのだ。そして、無言で深々と頭を下げた。
「いいのよ、仕事なんだから。それよりも、記憶喪失の症状でてる?」

「ええ、タバコのことすっかり忘れているんです。前は、モクモクと吸っていたのに。」
香美ちゃんが作業に向ける手を止めて、俺より先に答えた。
「そうなの?」
近藤さんには言うつもりはなかったが、香美ちゃんに答えられたのでは仕方がない。俺は無言で肯いた。
「そう、落ちたときの事情もおぼえていないのよね?」
再び肯く。まるで、怠惰なコンビニの店員のように、気持ちなどいっさい込めずに、ただ頭をふり降ろす。
「それに、フィアンセのことも忘れていた。うーん、思っていたよりも重傷かもね。日常的なことは平気みたいだけど、なぜか最近の記憶というものが抜けきっているみたいね。まるで、そこだけナイフで切り取ったみたいに。」

「そうね。」
低い声で、香美ちゃんは顔をうつむけながら応じた。手は鞄の中に荷物を入れるという作業を急ピッチで進めている。
「うーん、やっぱり、退院、少し伸ばそうか?完治してからの方がいいかもしれない。下手に外に出して、変な影響とか吹き込まれると、前の記憶がよみがえるのに時間がかかるから。いいかしら、古西君?」
俺は退院したかった。だが、それ以上に、こわかった。もしも、失ってしまった記憶の中で、身を裂くようなきつい現実があったのならば。もし、それを知らずに外に出て、取り返しのつかないことになったら。それに冷静に考えると、もう少し入院していた方がよい。ここは安全だ。もし、吉川が俺をもう一度殺そうとしても、俺をここで殺すことはできまい。病院の中でなら、手は出すまい。香美ちゃんの作業を俺は手で制止し、もう少しここにいることを近藤さんに告げた。そして、香美ちゃんに、下まで送るよっとかっこよく口走った。
「ゴメンね。せっかく、フィアンセの君がいるのに、退院したがらなくって。はやく記憶を戻したいだけなんだ。完璧な記憶が戻らなかったら、君だって、いやだろ?君との思い出も忘れたままだし、それに大事なこととか忘れてたらこわいし。それにね、落ちたときの事情もおぼえていない。何で、俺が落ちていたのかもわからない。だからさ、ゴメンね、今日は。一緒に帰れなくって。」
俺はロビーで缶コーヒー握りしめながら言った。自分でも、自分の言葉に肯きながら、心臓の鼓動と同じリズムで、俺は首を縦に振った。香美ちゃんの横顔には絶妙なタイミングで影が差してきていた。俺は缶コーヒーを床に置き、香美ちゃんの肩を軽く叩いた。香美ちゃんは、なかなか席を立たなかった。  香美ちゃんを送った後、俺は少し散歩をしようと思い、病院内をうろつき始めた。頭の中を空っぽにするように、俺は努めた。心落ち着かせ、深呼吸を一つしてから、記憶を思い出そうとしたのだ。だが、いっこうに思い出せない。だいたい、何を思い出すのかさえわからずに、思いだそうとするのだから、無理に決まっている。目的もない、そんな行動が何の実を咲かせるだろうか。俺は自分の馬鹿げた行動に嫌気がさした。ため息を一つつき、手持ちぶさたな手をジーパンのポケットの中に突っ込んだ。  そのとき。手はジーパンの中のタバコにふれた。俺はグシャグシャなそれを引っぱり出した。おもむろに、それを見つめた。俺はこれを吸っていたのか。二本残っているそれの、白い紙に包まれた一本を俺は取り出した。口に自然と近づける。口を開くタイミングが遅いのでもなく、速いのでもない。うまく、口にくわえられる。ポケットから取り出したライターで、俺はかすかな炎を立てた。顔を炎に近づけ、くわえたそれに煙を立てさせた。  刹那、脳に隙間ができたような、吸い込まれる感覚をおぼえた。気づいたのだ。タバコの吸い方を俺は体で覚えている。体が覚えているということは、以前は確かに吸っていたはずだ。しかし、それを忘れたということは、その忘れた何か原因があるはずなのだ。おそらく、それが俺の中に作られた記憶のホワイトホールを閉めるフタなのであろう。白煙を吸う度に、俺は昔に帰るような気がした。完璧な記憶を取り戻していくような、そんな想いを胸に抱いていた。失った記憶への回帰には、細い道筋かもしれない。だが、俺には、この白煙に期待するしかないのだ。吸い尽くした一本を足下に落として、靴で火をねじり消した。俺は残りの一本にも火をつけた。希望という火を。  部屋に戻り、近藤さんを俺は呼んだ。それと、俺をこのようにした吉川を呼んでくれるように看護婦さんに頼んだ。二人は連れだって、部屋に入ってきた。
「どうも、呼び立てて。話があるんですけど、ここじゃなくって、屋上に行って話しましょうよ。近藤さん、証人になってもらいたいんですが、いいですか。」
近藤さんは黙って、屋上に向かいだした俺の後ろについてきた。吉川はその後ろをノロノロと首を垂れて歩いていた。  屋上に着くと、俺はグシャグシャになっていたタバコを胸のポケットから取り出した。そして、もう一つのポケットからは、さっき、下のロビーで買ったばかりのタバコを取り出した。そして、新しいタバコの包みを破り、一本のタバコを口にくわえた。
「俺、考えたんだけど。タバコって、記憶の忘却作用があるんだよね。何か、現実の嫌なことから逃げることができるらしいんだ。現実を忘れるんだから、当然。だけど、今の俺には、タバコは忘却に作用するんじゃなくって、記憶を取り戻すことに動くんじゃないかなあ。なぜって、タバコのことをさあ、俺は忘れていたんだ。だけど、さっき、下で吸ってみたんだ、こうやってね。」
くわえていたタバコに点火をした。そして、深呼吸をするように、横隔膜を際限まで上げた。すかさず、口から糸を吐き出すクモのように、俺は煙を思いっきり吹いた。
「こんなふうに吸ってみたよ。」