恋愛小説「ストーカー気分は上々」5

恋愛小説「ストーカー気分は上々」5

管理人さんは、そうですかっと一言つぶやいただけだった。途端に、無言の世界が広がった。管理人さんが黙ってしまうと、ほとんど何の音も聞こえない。沈黙。私は救われないような気がしてきた。おそらく、管理人さんはこの沈黙を怖れてしゃべっていたのだ。今度は、私がその沈黙を破らないと。そうしないと、なんだか永遠にこのままのような気がする。
「ねえ、管理人さん。猫の名前、どうしましょうか」
「あ、そうですね。ゆうきっていうのはどうかな? 」
「ゆうき? 」
思わず、聞き返してしまった。ゆうきという名前。それは昔、私がつき合っていた人の名前だった。鼻をつんと立てた感じの三好ゆうき。優しくて、キザな彼と別れて、もう二年にもなる。いつのまにか、私は一人の時間に慣れてしまっていたのだ。ゆうきのことなど、最近になると、思い出すことがほとんどなかった。別れてから、一ヶ月ぐらいはよくゆうきとの楽しい日々を思い出しては思い出し笑いをしていたのに。二年という時間は、アッという間に過ぎてしまったのだ。私は時間というものの無情さを感じた。また少し、このエレベーターがこわくなっていた。
「ゆうき。ダメかな? 」
「うーん、ちょっとね。もう少しかわいい名前の方がいいと思うんだけど」
「じゃあ、やっぱりミーチャンかな。ね。京子もそう言っていることですしねえ」
京子・・・。今、管理人さんは、確かに私のことをそう呼んだ。京子。馴れ馴れしい言い方だ。だが、それ以上に、私は背筋がゾクッとした。彼はここにきて、まだ一日なのだ。それなのに、なぜ私の名前を覚えているんだろうか。朝挨拶したときには、私は自分の名字は話したが、名前まではしゃべっていない。なんで知っているんだろう?
「あ、川村さん。何か人の足音みたいなもの聞こえませんか? 」
トン、トンという定期的な音がする。足音だ。
「すいませーん、すいませーん」
私は声を精一杯張り上げた。ここで気づいてもらえなかったら、ここから出られないのだ。私はエレベーターの扉を思いっきり叩きながら、叫び続けた。
しかし、足音は止まる様子がない。その定期的なリズムのまま通り過ぎていってしまった。エレベーターの扉にすがったまま、私は外を忌々しげに見た。なんで、気づかないの。
「・・・行ってしまったようですねえ」
事実を述べるだけの管理人さんの言葉だった。むなしく、その言葉はエレベーターの中の狭い空間を漂う。そして、その漂った言葉の出口もない。ずっとこの中を漂い続けるのだ、この扉が開かれるまで。
それから三十分たったのだろうか。それとも一時間が過ぎたのだろうか。時間の感覚が無くなってきた。物音が少し聞こえるだけで、私は助けてもらおうと大声を出して、ドアを叩き続けた。しかし、誰も気づいてくれない。エレベーターも動く様子を見せない。赤々とした非常灯だけが光る。
日常、気づかないことが本当に多くあるものだ。私だって、仕事から疲れて帰ってくると、少しでも早く自分の部屋に戻りたくなる。少しでも周りの音を遮断して、自分の殻に閉じこもって休みたくなる。少し気をまわりに張るだけで聞こえるはずの音や、見えるはずのものを、私は受け容れることを拒否しているのだ。そう、それは本当に疲れているからだろうか。いや、疲れているからだけではないだろう。こわいのだ。自分と関わりのないことに首を突っ込むことがこわいのだ。自分がそれによって変化させられることがこわいのだ。安定した、変わりのない生活という自分の殻の中で、生活していきたいのだ。これは、おそらく私だけではないだろう。都会に生きる人、みんなが願うことなのだろう。そして、それが当たり前のようになっているからこそ、人の生活に干渉しないということが都会のルールになっているのだろう。
そう考えると、淋しくなった。誰も気づいてくれないのではないだろうかという考えが、強くなったからだ。いつの間にか、私はエレベーターの扉の前にしゃがみ込んでいた。エレベーターの床は冷たかった。
大丈夫ですよ。私は声を聞いた。久しぶりに聞いた声のようだった。私は振り返り、管理人さんの顔を見たくなった。振り返ると、赤い照明の顔は笑っていた。
「大丈夫ですよ、絶対にここから出す方法を考えつきますから。これでも、もと敏腕探偵ですからね」
抑揚のない声だった。しかし、その抑揚のない声が、今では蜃気楼のようになってしまった日常の声に聞こえる。この空間の中に日常の小さな一瞬が流れたのだ。とても居心地の良い一瞬だった。
ガタン。
エレベーターが急に傾いたのだ。悲鳴を上げたまま京子は、俺の方に抱きついてきた。俺は懸命に受け止めようとするが、受け止めようとする俺も後ろの方に引っ張られていく。ドカッという音とともに、後ろに引っ張られることはなくなった。背中をしたたかに打ったようだ。
「だいじょうぶ? 」
京子が俺の顔をのぞき込んできた。京子の心配そうな顔も美しい。俺はつい微笑んでしまった。
「ありがとう。でも、これは早くここを出なくちゃ。多分、ワイヤーが一本切れたのか、とれたのかしたんだと思うよ」
「じゃあ、落ちちゃうの、このエレベーター」
肯くわけにはいかなかった。京子を守らなければならない。エレベーターの落ちる前に、どうにか京子だけでも、ここから出さなければ。俺はまわりに注意深く目をやった。ここから抜ける場所はないか。俺はくっついたままの京子をしっかりと抱き寄せながら、赤く照らされている部屋の中を探し続ける。
壁は固い。とても破れそうにない。鉄の扉をを開けるのも、とても俺の力じゃ無理だろう。どうにも仕方がないのか。肩から京子の震えが伝わってくる。京子の震えを通して、俺は京子の恐怖を感じている。そして、俺はその恐怖の源を絶たなければいけないのに、どうしてやればいいのかもわからない。ああ、俺はどうすればいいんだ。俺は天を仰いだ。
しかし、答えは天にあったのだ。天井のパネルを外せばよいのだ。「ダイ・ハード」のワンシーンで見たことがある。天井のパネルを外して、外にあるパイプに捕まり、外へと脱出していくシーンを。