恋愛小説「ストーカー気分は上々」7

恋愛小説「ストーカー気分は上々」7

 何分間か登ると、手が疲れ始めていた。握力が無くなってきていることに気づいてはいたが、登らなければいけない。登ることが生きることだったから。登ることが恐怖から逃れるためのすべての方法だったからだ。私は生きたかったのだ。
「さあ、あと少しだ。疲れたか? 」
「ううん、平気。大丈夫だよ」
私は管理人さんの声を聞くと安心した。心から生きている心地がしていた。
時折足が滑る。その度に全身に鳥肌が立つ。思わず見てしまう下には、さっきまでいたあのエレベーターがある。赤い照明がかすかに洩れ、あそこだけが明るい。まるで、こっちに来るように誘いかけているかのように赤々と光っている。
底からの風はさっきよりもいっそう強く吹いている。寒い。それだけでなく、風が私を引っ張っている。下へ下へと引かれていく。背筋に伝わってくる冷気は、これまでに感じたことのない恐怖だった。上を見れば、あと少しだというのになかなかつけない。しかし、下に行こうと思えば、簡単なことなのだ。この風が誘うままに、下に落っこちればよい。手のしびれは限界にきている。これまでにないほどの誘惑を感じるのだ。手の疲れ、痛みから楽になれるということがどんなに幸せなことか。どんなに魅力的なことか。風の誘惑に負けそうな自分がこわかった。
けれど、そんな誘惑に負けそうになる私をいつも守ってくれているものがあった。管理人さんの手だ。ゴツゴツとした手が、私に生きることを諭し、現実の生活に戻るように導いてくれる。顔を上げて、私はその手にしっかりとつかまりながら登っていった。  扉の横で、管理人さんは止まった。
「京子、ちゃんと捕まってろ」
上で管理人さんが、扉を開けようとしている。動きそうもない扉にウンウンといいながら立ち向かっている。
少しづつ、少しづつだが開いてきた。光が射し込んできているのだ。最初は髪の毛一本の光だったのが、今では親指大の明かりになってきている。光が私に射してきている。光が管理人さんの顔を覆っている。私たちに光明が見えてきたのだ。
全開になったドアに、管理人さんは手をかけて登った。私たちは脱出に成功したのだ。
「京子、さあ、こっちへ」
まぶしい光の方から、手が伸びてきた。生きられたんだ。私たちは生きたんだ。体中に、温かさが戻ってきたような気がした。生きるってことは、温かいことなんだ。肌で、生きるということを感じた一瞬だった。
私は最後の一歩のために、残った力を振り絞って、伸ばせるだけ手を伸ばした。

電灯の光の中で、俺は京子のやわらかい手をつかんだ。これで終わりだ。京子の手をしっかりとつかみ、上へ引き上げようとした。その瞬間だった。京子の手がスルリと抜けたのだ。俺の手から京子の感触が無くなった。アッと叫ぶ間もなく、喜びに溢れていた京子が遠ざかっていく。闇の中に落ちていく。
ダーン。ダ、ダーン。
激しい落下音が闇の中から聞こえた。
「京子」
返事は聞こえなかった。いや、返事がない。全身から、汗が噴き出してきた。
「京子ー」
もう一度叫んだ声がむなしく響く。

赤いサイレンを鳴らせるだけ鳴らした救急車が、俺と京子を乗せて、病院にひた走る。まだかと催促する間もなく、救急車は東邦医大に着いた。担架に乗せられた京子は苦しそうな顔をして、目をつぶっていた。俺は担架にしっかりとついて、病院の中を疾走する。担架についている車輪の音が俺の気を余計に急かせる。
「京子、京子」
俺は何度も叫んだ。返事は全くない。
「先生、京子は大丈夫なんですか?」
「見ないとわからない」
機械的な声で答えた医者とともに、京子は手術室に入っていく。俺に出来ることは、祈ることと待つことだけ。今の俺には待つことだけだ。俺は手術室の前にある茶色のソファアにドカッと腰を下ろした。ソファアは冷たく、さっき京子が支えてくれた尻の温もりが消えてしまいそうな気がした。