青春小説「怖くて飛べない!」11

青春小説「怖くて飛べない!」11

枕に何度も拳を振り上げた。悔しくなっていたのだ。自分の修行の無価値さを思うと。恵理香を守れない状態になった自分を思うと。そして、セルフコントロールしきれない自分を憎んだのだ。

「おいおい、ほこりが立つだろう。止めろよ」

土方の声だ。いつのまにか、病室に入り、土方は腕を組んで見ていたようだ。

「どうした? 何かあったのか」

黒いサテン生地のシャツに、ワインレッドのネクタイが揺れている。

「何でもないよ。ただ、自分の修行に何の意味が合ったのかなって思ってな」

「どうして?」

土方はゆっくりとした口調で問いかけてきた。

「ん、どうしてかって? こんな腕にはなるわ、こうやって自分の感情はコントロールできないわ」

枕をさらに殴り続ける。鈍い音が絶え間ない。

「技術を学ぶことだけに、必死になっていたんだと思うとな。無性に腹が立つんだよ、そんな自分が」

なおも枕を殴り続ける。自棄になっていたのだ。病室の中で聞こえる音は、僕が枕を殴る鈍い音だけだった。

「それは違う」

土方は突然怒鳴った。電気が走ったように、僕の腕は止まった。土方の強い視線を感じる。燃えている。

「それはな、違うぞ。お前は確かにきちんと心まで修行していた。追い廻しの時、お前は誰よりも早く来て、一生懸命に板場を掃除していたじゃないか。誰よりも包丁を大事にしていたじゃないか。そんなお前が心を学んでない? お前は道に迷っただけだよ。遊び始めたのもわかる。そりゃあ、俺たちの歳は遊び盛りだからな。悪いとはいわねえよ。けどな、怪我をしたことと自分が学んできたものとをごっちゃにするな。だいたい、俺に対して喧嘩売っているのか? お前が学んできたものは俺も学んできたものだ。それを否定するのか」

生まれてきて初めて感じた恐怖だった。だが、僕は負けたくなかった。僕は土方に負けないくらい大きな声で叫んだ。

「そうだよ。否定するよ。お前や俺が学んできたものに、本当の心なんかなかったんだよ。その証拠に、ほら、俺のこの手を見ろ。もし、心を学んだんなら、こんな事になるか。なるわけないだろう」

僕は曲がった小指を見せつけた。窓から刺さる夕日のせいか、小指はいつもに増して痛々しい。

「そんなことない。お前の事故はたまたまだ。誰だってそうなんだよ。俺だって、いつお前みたいになるかわからねえよ。いつ死ぬかもわからないし、この先どうなるかなんてわからないんだよ。先のことなんか、わかってたまるか。先のことをなあ、料理の心を学んだからって、わかるわけないんだよ。それを、お前は」

土方の呼吸は荒い。言葉に詰まったのか、息が詰まったのか。土方は言いかけた言葉を口で止めて、しかめっ面の顔を震わせながら話し始めた。

「お前は、先のことを操作できるのか。未来のことを、自由にできるのか。今を大切にするためにこそ、お前も俺も学んできたんじゃないか。何トチ狂ってるんだよ」

未来のことは誰にもわからない。土方の声が僕の後ろ側で反響していた。シーツをぎゅっと掴んだまま、僕は土方を見ていた。

「あのなあ、安藤。何があったのか知らないけどな。大切にしろよな。今のお前を。どんなにへたばったって、お前はお前なんだ。お前はこの世でひとりしかいないんだ。だから、今をお前がやりたいようにやるんだよ」

荒い息づかいが僕の顔にぶつかってくる。

「土方。僕は…」

僕は怖いんだよ。自信がないんだよ。料理の世界でも、恵理香のことも。怖いんだよ。しかし、そんな想いはいつも声にならない。

土方の顔はいつもの顔に戻っていった。目に灯していた炎が揺らめき、そして消えていった。

「土方、僕は疲れたよ。すまないが、出ていってくれないか」

「わかったよ。でも、わすれんなよ。また来る」

土方はそう言うなり、肩を怒らせたまま病室を出ていった。土方がドアを閉めるまで、僕はずっとその様子を見ていた。その後ろ姿に僕は神々しい大きさを見た。

土方が2時間前に残した言葉は、まだ僕の後ろの方で騒いでいる。僕という湖面に土方の投げた石は大きな波紋を残したようだ。未来は誰にもわからない。土方の言うとおりだった。全ての僕の事情を知っている僕にも、もちろん、他の誰にも未来はわからない。

けれど、未来は現在の行動に基づいて決まる。現在の行動によって、未来は決まるんじゃないか。僕の胸からはそんな声が上がる。しかし、背中の方では、今する行動が未来に何を及ぼすかが全部わかるはずはないじゃないかと叫ぶ声が聞こえる。2つの声に、僕はどうすればいいのだろう。今までの僕を表している胸の声と、今まで抑え続けてきた僕を表している背中の声。僕の中で、2つの声が今までになく競い始めている。

気づいたが、今の僕は今までになく熱い。その証拠に、胸を消火しようと目から水が勢いよく流れている。鼻からも。顔中水浸しだった。