卒業・青春小説「怖くて飛べない!」14

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卒業・青春小説「怖くて飛べない!」14

『赤船』は久しぶりだった。

「こんにちわ。土方います?」

「いらっしゃい。坊ちゃんは来てないよ、まだ」

カウンターの先にいる高杉さんは、表情を変えずに答えた。

「んじゃあ、先に何か食べようかな? アイツと付き合っていると、酒浸りになるからね。今日は何が良いんですか?」

「そうね。今日はイカが良かったから、イカ刺しかな。イカ飯もあるけど、どっちがいい?」

僕は迷わず、両方と答えた。赤船の料理に間違いはないだろう。

「安藤さん、天下屋出されたんだって。落ち込まないようにね。あそこはもう料理を商品としてしか考えていないからさ。むしろ、そんなところから出ることができて良かったじゃないかな」

視線を動かしている手の方に落としたまま、高杉さんは僕をねぎらってくれた。高杉さんは、土方がオヤジと呼んでいるほどの人だ。さすがにあたたかい。

「どうも。さすがに高杉さん」

謙虚に手を振る。しかし、次の瞬間から高杉さんは不敵な笑みを浮かべていた。そして、僕の前へ左手にイカ刺しと右手にイカ飯を並べる。イカ刺しは透明で、皿の模様が見えるほどだった。

「さすがに高杉さんだね。新鮮なイカを選んできますよね。すごいっすよ。この鮮度」

「安藤さん、まあ、食べてやって下さい」

手ぬぐいで手を拭き終えると、食べることを催促するかのように僕の方をじっと見つめていた。高杉さんはさっきと同じように不敵な笑みを浮かべている。

「んじゃあ、いただきます」

僕はイカ刺しを1枚めくるようにして、箸にのせた。箸で掴んだだけでも、イカの弾力が伝わってくる。口に入れる前から味が楽しみだ。僕はすぐに口の中に放り込んだ。シャクシャクという音が聞こえるほどに勢いよく歯を上下させる。イカは程良いあたたかさを持っていた。それでいて、歯ごたえもちょうどよい。また噛むごとに、イカの甘みが口中に広がってくる。それでいて、少しも生臭くない。

「高杉さん、これ、本当にうまいっすよ」

「そう、ありがとう。料理っていうのは、素材が命でもあるからね。どんなに腕のいい料理人でも、素材を選ぶ目のない人間はダメだと思いますね。じゃあ、こっちも食べてみて下さいよ」

高杉さんはイカ飯の方を食べるように勧めてきた。僕は高杉さんにしたがってイカ飯の方に箸をのばす。焦げ目が模様のようについている外見。ご飯の色も飴色でとてもおいしそうだ。僕はイカ飯を箸で掴むと、そのまま口の中に運んだ。イカの甘さがご飯によく染み込んでいた。イカも固すぎず、先ほどの刺身同様適度なあたたかみと弾力を兼ね揃えている。

「イヤーこっちもうまいっすよ。高杉さんはやっぱり違うな」

「うーん、でも、これは外見的味も試されている料理じゃないかな。ご飯の色をどのくらい飴色にするか、どのくらいご飯をイカからはみ出させるか。焼き色の付け具合とかね。そういう面でも、イカ飯っていうのは”見せる料理”でなくてはいけないと思うんだよ」

さすがに高杉さんだ。考えていることの奥行きが違う。

「イヤーさすがですね。考えていることのレベルが違いますよ」

「そんなことはないよ。それよりもわかりましたか。料理には、材料を選ぶ目も大事だということや色彩感で味を見せることも大事だということが」

「ええ。今はっきりと意識しましたよ。なんだか、大事なことを意識し忘れていたかも知れないですね。しかし、残念ですよ。もう、料理に口うるさいだけの素人になってしまったことが。もう一度、板前として働けたらってお思いますよ」

「本当かい?」

「ええ、本気ですよ」

「そうか」

すると、高杉さんは冷蔵庫の前に移動して、灰色の重そうな扉を開けた。また何か出してくれるのだろうか? イカ刺しを口に入れながらも、僕は首を傾げる。しかし、僕の期待は簡単に裏切られた。高杉さんは冷蔵庫から何も出さないで戻ってきた。ただ冷蔵庫の中をあさっていただけのようだ。

「さてと。トシ坊ちゃんも、もうすぐ来るだろう。ちょっと奥に捜し物があるんで、奥に入ってますから。ゆっくりしていって下さい」

そう言うなり、高杉さんはいそいそと奥に姿を隠してしまった。返事をする暇を与えずに。カウンターに残された僕には、ムシャムシャとイカ刺しとイカ飯を食べるしかなかった。他にすることといったら、土方を待つことだけだ。イカを噛む音だけがひっそりと響く。

横戸がガラガラと音をして開いた。土方だった。土方は遅くなったことを詫びると、すぐに僕の横に腰を下ろした。

「おお、うまそうな物、喰っているじゃないか」

土方は今にも僕のイカ刺しに手を伸ばしそうだった。

「高杉さん、呼ぼうか?」

「いや、いいよ。それよりもおまえさん、この料理を見て何か思わないか。また料理に関係した仕事をしたいと思わないのか?」

「そりゃあ、したいさ。でもな、手がこんなんじゃ、誰も雇わないだろう。無理なことは言わないよーに」

僕は土方にイカ飯を見せつけながら頬張った。せめてもの腹いせだ。

「じゃあ、おまえさんを雇う奴がいたらやるんだな?」

「主義が一緒ならやるさ」

手を伸ばして、竹でできた箸入れからわり箸を取った。そして、僕のイカ刺しから1枚抜き出すと、イカ刺しにパクリと食いついた。食いつく瞬間の表情はなにやら得意げな様子だった。

「うまいなー、このイカ刺し。やっぱ、オヤジは違うねえ。でも、こういうツマミがあるとうまい酒が飲みたくなるなあ。高杉のオヤジを呼ぶか、そろそろ」

そう言うなり、土方は胸のポケットから携帯電話を取り出した。

「これな、208シリーズなんだぜ。ハモメロだよ。後で聞かせたやるからな」

などと言いながら、土方は3回ボタンを押した。少し間が空いてから、着信音が店中を響き渡る。どこに携帯電話があるんだろう。僕は音の聞こえる方を探した。冷蔵庫の方だ。冷蔵庫の中で鳴っているのか? 僕は自分の目を疑った。

すると、奥から高杉さんが出てきて、冷蔵庫を開ける。中で鳴っている携帯電話を取り出した。

「もしもし」

高杉さんは土方の方を見て、ニヤッと笑った。

「悪かったな。ちょっとお前さんを試させてもらった。安藤の料理に対する気持ちを確かめたかったんだ。オヤジにも協力してもらって、ちょっと大がかりだったけどな。実はな」

土方はイスから乗り出してきた。

「実はな、今度、出張料理人の仕事をしようと思うんだ。それでぜひ、お前に手伝って欲しいんだ。お前の食材を見抜く目や色彩感覚。腕が使えなくとも、十二分に役立つ。実は、俺もさ、お前と同じように天下屋追放されちゃってさ。でも、料理を辞める気はさらさらないんでね。天下屋に反乱ののろしを上げようと思うわけだ。オヤジも首を縦に振っているし、どうだ? 安藤」

僕はあまりにも急な展開に驚いていた。どうしたらいいのだろう。いや、どうしたらいいのかを考える時間よりも、それよりもまず、僕にはこの情況の整理に時間が欲しかった。僕は黙ったまま土方を見るだけだ。

「安藤、男に2言はないよな? さっき、主義があえば、この仕事に戻るって言ったよな。親父の前でも、俺の前でも。先輩や友達に嘘をついたんじゃないよな」