青春小説「怖くて飛べない!」2

青春小説「怖くて飛べない!」2

だが、そんな関係も恵理香が大学に入る頃に変化が現れた。僕が料理業界のトップと称される天下屋に勤めるようになってからだ。恵理香は僕に頻繁に会いに来るようになった。恵理香の親が離婚しそうになっていたのだ。家庭の事情を相談できる相手がいなかったのだろう。僕は何度も恵理香の泣きそうな顔を見た。

「どうしよう? 別れたら、やっぱり大学なんか行かないで働くべきだよね」

恵理香は僕の目を見ずに話していた。

「うーん」

僕には、僕が答えるべき問題ではないことがわかっていた。だから、相談を聞くことはあっても、答えを出すことはしなかった。経済的な問題に血族以外の人間が口を出すべきではないのだ。

「お父さんがいなくなったら、お金無いもんね。いくら国立の医学部だからって、お金、たくさん要るもんね。あーあ、こんな事になるんだったら、私も安藤みたいに手に職を着ければ良かったなあ」

白い毛糸の手袋をはめた手をこすりながら、恵理香は僕の方を見つめてきた。そんなときは必ず、目に涙を浮かばせていた。父をなくすことへの涙か、自分の夢を閉ざされることへの涙か。はたまた、僕に同情を誘うための涙か。いまだに、僕にはわからない。

だが、涙を浮かべた恵理香の表情は、この上なく美しかった。一粒、一粒、雫のように流れる涙。透明な輝く雫が恵理香の白い肌をゆっくり流れていく。その雫は流れ星のように孤独で冷めていた。涙を流す恵理香。ざめざめと泣く恵理香は孤独で物悲しく見えた。そして、その孤独さやもの悲しさが恵理香の美をより引き立てた。頬を伝う涙はこんなにも人を美しくさせるのだろうか。悲しいほどに、恵理香は美しかった。

そんな恵理香を見ていると、僕はどうしても助けたくなった。不幸に崩されそうになっていた恵理香に少しでも手を貸したかった。この時の僕の気持ちはよくわからない。恵理香が好きだったから手を貸したかったのか。それとも、単なる不幸に襲われた者への同情か。手を貸すことによって、優越感を味わいたかったのかも知れない。僕自身がどんな気持ちだったのかわからなかった。だが、その反面で、僕にはどうしようもないことがわかっていた。仕事に追われ、また金もない自分には、なにひとつ恵理香のためにできることはなかったのだ。一緒にいることさえ、自由にできなかった。僕には彼女がいたし、また僕が恵理香の彼氏でもなかったからだ。助けられない僕は。いや、恵理香に対する気持ちさえわからなくなっていた僕は。そんな僕は恵理香の友達としての地位でさえ疑わしくなっていた。

その時の僕では”僕が恵理香の友達であるのか”という問いに、はっきりとした答えがあると考えつくほど大人でもなかった。

そこで、僕は一計を案じた。誰か金と余裕のあるヤツに、恵理香の力になってもらおうと考えたのだ。そこで僕が選んだのは、町田だった。

ある日、僕は恵理香を店の近くのマクドナルドに呼び寄せた。午後の緩やかに流れる時間。マクドナルドの中にはあまり人がいず、ゆっくりと話が出きるように思えたからだ。

氷のジャラジャラなるカップをテーブルに置くと、僕は上下の犬歯を噛みあわせた。そして本題を切り出そうと思った。

「ねえ、恵理香」

「何?」

恵理香は素知らぬ顔をして、照り焼きバーガーにかじりついていた。僕には何も言えなかった。僕に泣きついたときの様子とはがらりと変わっていたからだ。落ち着きを取り戻したようだ。だが、そんな態度が強がっているようにも見える。両親のことをたずねるには、あまりに難しい情況だった。たずねれば、そのことを思い出して泣いてしまうかも知れないし、かといって、たずねないでおけば、ここに恵理香を呼び出した意味がなくなってしまう。僕には、恵理香の考えていることがわからなかった。

だが、僕はただ逃げていたのかも知れない。

「あの、照り焼きバーガーおいしい?」

「うん。食べてみる?」

「ああ、じゃあ、一口」

僕は場の調子に任せることにした。珍しくもない照り焼き味のハンバーガーを頬張りながら、僕は無邪気を装った。

「ねえ、料理業界って厳しいの?」

「そうねえ、やっぱり下積みの間は厳しいね。いろいろとこき使われるからねえ。でも、まあ、好きでやっているんだから、いいんだけどね」

「そうなんだ。私はてっきり安藤が高校まで行く気があるもんだと思っていたよ。でも、早く板前さんになりたかったんだね。いいよね、自分のライフワークを早く見つけて、それに没頭できるって。うらやましいよ」

そうだね。僕は確かに板前になりたかった。亡くなった父親の影響かも知れない。父親が料理人で、幼い頃の僕には父親のかっこよさが唯一絶対のものだったからだろう。それに僕は幼い頃から何かを作ることが好きだった。板きれを釘で打ち合わせて、簡単な踏み台を作ったり、家庭用液体洗剤を混ぜて、シャボン玉を作ったりして遊んでいた。父親も母親も、そんな僕の姿を見ては面白がってくれた。危ない、危ないと言いながらも、横でにこやかに笑っていてくれた。そして、僕が僕の作品を完成させると、大きな手で頭を撫でてくれた。それが僕の創作意欲に結びついたのだろう。創作意欲があって、料理が好き。僕の道は板前になるしかなかった。ツイていたことに、手も生まれつき器用だった。

「私は医者になること、あきらめたよ。これから先どうしようかな?」

ジュースを飲むために、恵理香は視線を落とした。僕には、恵理香の顔が見えないことが怖ろしかった。泣いていたり、悲しそうな顔をしていたらと思うと、僕はいたたまれない気持ちになる。できればジュースを飲むことを止めて、顔を上げて欲しかった。