将来に悩む青春小説「怖くて飛べない!」6

将来に悩む青春小説「怖くて飛べない!」6

僕はギブスで固められた右手を挙げて見せた。不幸中の幸いか、右手は単純骨折で済んでいた。

「まあ、こんな事になったのは全部僕のせいだ。誰も攻められないよな? ははは」

僕の笑いは悲しい。自嘲なのだから。リハビリを通しても左手の復活は難しいとも言われていたので、このまま天下屋で働くことは無理だろう。自慢の顔にも傷が付いてしまい、おそらく女たちも夢から覚めたように僕から離れていくに違いない。僕には何も残っていなかった。仕事も、女も失った。長い修行の日々で培った技術も、天性のルックスも無くしてしまった。今の僕には、何一つ残っていない。

「そうね」

恵理香は呆れたのか、それとも慰めようがないと諦めたのか。そうねという一言だけだった。僕の怪我の状態を説明した時のまま、表情を少しも変えていなかった。

「さあてね。これからどうしようかな?」

僕は天井を見ながら呟いた。いつの間にか、鼻を刺すような涙の臭いがしてきた。涙がこみ上げてきたときの、涙特有の臭いだった。涙はとても生臭い。恵理香はファイルを胸に抱え込んだまま、黙って僕を見下ろしていた。涙にぼやけて映る恵理香はいつの間にか悔しそうな表情に変わっていた。

「なんだよ。僕の責任だよ。恵理香が泣くことなんてないじゃないか? 恵理香が悔やむことはないじゃないか? これは僕の問題なんだよ」

お前には関係ない。そんな口振りだった。

「そんなことないよ。私がダメになりそうだったときに、いろいろと言ってくれたのは安藤じゃん。私にとって、安藤は…」

「そうか」

僕は恵理香の言葉をさえぎった。その後の言葉を聞くのが怖くなったのだ。もしも、友達といわれたら。その瞬間から、僕と恵理香との間には境界線ができる。僕にはそれが怖かった。今まで、ずっと、それも僕自身努めて引いてきたはずの境界線を、僕は跡形もなく踏み消そうとしていた。それは、自分では恵理香に”友達”と言われる可能性が高いことを知っていたからだろう。

「恵理香。町田とはうまくやっているのか?」

「うん。あの人頼りないけど、ものすごく私のことを必要としてくれる。今の私には、それだけでも十分」

「そっか。良かったな」

それでいいんだ。僕は心に投げかけた。それでいいんだという言葉を、何度も何度も。

「もう寝るわ、疲れた」

「うん、また来る」

唇をぎゅっと噛み締めた。歯も食いしばった。けれど、喉の奥からこみ上げてくる嗚咽には抗いようがなかった。目の玉が体の中に入り込むほどにきつく目をつぶった。今まで目の前にあった光が強く残像として残っている。その光はビリジアングリーン色に輝いている。散らばっていく光の粒子。目をつぶったことによって、光が分解されて、ビリジアングリーンの粒子になっていた。

起きたときに、誰かがいることに気付いた。ワインレッドのシャツを着た土方だった。ベットの側のパイプイスに座り、足を組んでうつむいている。僕は体を起こして、土方に声をかけてみた。だが、何の返事もない。寝ている。

「土方、土方」

僕は何度も声をかけた。それでも起きる様子はない。何のために、こいつはここに来たのだろう。

「土方」

僕は怒鳴った。だが、やはり起きなかった。僕は土方を揺すろうとして、包帯に巻かれた手を伸ばした。後数センチで届きそうなのだが、なかなか届かない。僕は体を前に倒して、どうにかこうにか土方に触れようとする。しかし、白い包帯が微妙に震えて空を泳いでるだけだった。はぁー。前倒しにした姿勢に疲れて、大きな息をつく。僕は土方を起こすことをあきらめて、再びベットに寝そべった。

味気ない天井を見ては、自分の失ったモノの大きさを思う。料理人としての実力やそれに伴う声望。この2つによって支えられる金銭的安定も失った。だが、お金のこと、生活のことなんて、どうでもいい。何よりも、僕は板前になる夢を捨てざるを得なかった。悲しいことだが、もうこの道では食べていくことはできないだろう。自由に動くのは、減らず口をたたくこの舌ばかり。腕は再起不能に近い。引き立ててくれる人間もいない。天下屋は実力主義の所だ。腕の使えなくなった料理人の後押しなどするはずがない。僕は改めて思った。大切なものは失ってから気付く。僕はその言葉の苦みをしゃぶらされている。おかげで、僕はあまりの苦さに顔をしかめてしまう。

ドアが音もなく開いた。恵理香が僕の方を覗き込んできた。寝ていると思ったのだろう。もちろん僕は起きていた。けれど、目を閉ざして、寝ているふりをした。今、恵理香とは話したくない。話せば、この間みたいに自嘲的な会話になることが目に見えていた。僕にはそれが耐えられない。恵理香は僕の目をつぶった顔を見ると、来たときと同じように静かにドアを閉めた。

「見舞い…か」

僕は呟いた。