将来に悩む青春小説「怖くて飛べない!」7

将来に悩む青春小説「怖くて飛べない!」7

起きたときに、誰かがいることに気付いた。ワインレッドのシャツを着た土方だった。ベットの側のパイプイスに座り、足を組んでうつむいている。僕は体を起こして、土方に声をかけてみた。だが、何の返事もない。寝ている。

「土方、土方」

僕は何度も声をかけた。それでも起きる様子はない。何のために、こいつはここに来たのだろう。

「土方」

僕は怒鳴った。だが、やはり起きなかった。僕は土方を揺すろうとして、包帯に巻かれた手を伸ばした。後数センチで届きそうなのだが、なかなか届かない。僕は体を前に倒して、どうにかこうにか土方に触れようとする。しかし、白い包帯が微妙に震えて空を泳いでるだけだった。はぁー。前倒しにした姿勢に疲れて、大きな息をつく。僕は土方を起こすことをあきらめて、再びベットに寝そべった。

味気ない天井を見ては、自分の失ったモノの大きさを思う。料理人としての実力やそれに伴う声望。この2つによって支えられる金銭的安定も失った。だが、お金のこと、生活のことなんて、どうでもいい。何よりも、僕は板前になる夢を捨てざるを得なかった。悲しいことだが、もうこの道では食べていくことはできないだろう。自由に動くのは、減らず口をたたくこの舌ばかり。腕は再起不能に近い。引き立ててくれる人間もいない。天下屋は実力主義の所だ。腕の使えなくなった料理人の後押しなどするはずがない。僕は改めて思った。大切なものは失ってから気付く。僕はその言葉の苦みをしゃぶらされている。おかげで、僕はあまりの苦さに顔をしかめてしまう。

ドアが音もなく開いた。恵理香が僕の方を覗き込んできた。寝ていると思ったのだろう。もちろん僕は起きていた。けれど、目を閉ざして、寝ているふりをした。今、恵理香とは話したくない。話せば、この間みたいに自嘲的な会話になることが目に見えていた。僕にはそれが耐えられない。恵理香は僕の目をつぶった顔を見ると、来たときと同じように静かにドアを閉めた。

「見舞い…か」

僕は呟いた。

のどの渇きを覚え、僕は起きあがった。どうやら天井を見上げたまま眠ってしまったようだ。土方は帰ったらしく、その姿が見えない。パイプイスだけがひっそりとしている。僕には土方が何のために来たのか不思議で仕方がなかった。土方にとって、僕はライバルだ。自滅した僕の姿を笑いに来ることはあっても、それ以外に何の用があるのだろうか。僕はふっとため息をついた。答えを出す必要もないことに、いたずらに頭を使っている自分に疲れたのだ。とにかく、水を飲もう。僕はナースコールのボタンを力強く押した。

「もしもし、何かありましたか」

「すいません。水が飲みたいんですが」

「はい、すぐに行きます」

事務的なやりとりだったが、素早い対応が僕にとっては嬉しかった。物事全てがこのようにテキパキと動くと気持ちいい。

ドアが開いた。

「お待たせ、安藤。はい、お水」

笑いながら、恵理香は水差しいっぱいの水を持ってきてくれた。

「ありがとう」

僕も笑って答えられた。そして、水差しをもらおうとして、手を伸ばした。だが、恵理香は渡そうとしなかった。

「ダメダメ、飲ませてあげるから。はい、あーんと口を開けて」

「え、おいおい、大丈夫だよ。水ぐらい、自分で飲むよ」

動揺を隠せない。

「怪我してるでしょう? 無理しちゃ、ダメ。はい、口を開けて」

渋い顔をしながら、僕は口を開けた。満足げに恵理香は水差しの口を僕の口に入れた。

「どう? おいしい? って、おいしいわけないよね。病院の水だもんね」

僕は首を横に振った。舌触りでもはっきりわかる硬水だった。舌で転がしていると、舌が泳いでいるようで、ほのかに甘みのある爽やかな味。井戸水を飲んでいるようだ。まるで水道の水とは思えない。

「怪我をしていても、いい味覚をしいるね。先入観にとらわれてないしね。この水は土方さんが持ってきてくれたの。天下屋で使っている上等な水だそうよ。あの人、服装とか変な人だけど、すごく優しい人だね」

「土方が持ってきてくれたんだ…」

大きなものに包まれていくような錯覚を覚えた。土方のやつ。土方のことが小憎らしく思えた。そして、土方のことを思うと、やけに饒舌になっていく自分がいる。自分でも興奮しているのがわかった。

「変なやつだろ? でも、超一流の板前なんだ。天下屋の御曹司さ。料理の腕では、僕とはライバル関係にあってさ。まさに一流だろ?」

「ふふん、そうね」

「いいやつだな、しかし」

「そうね。あなたのことを本当に気遣っているみたいね。いい関係だよね、ライバルであり、親友でありって」

親友か。その時になって、僕には土方の行動の理由がわかった。僕を見舞いに来てくれる土方は、僕に対して親友としての想いを抱いていたのだろう。仲間という意識を持っていたのだろう。それに対して、僕はそんな土方の気持ちを察することができなかった。暗く陰険に捉えることしかできなかった。どうやら、僕は土方のライバルになり得ないようだ。人間的には、土方の方に軍配が上がりそうだ。

「そうだな、親友って良いよな」

「そうだよね。私たちも…」