青春小説「怖くて飛べない!」8

青春小説「怖くて飛べない!」8

大きなものに包まれていくような錯覚を覚えた。土方のやつ。土方のことが小憎らしく思えた。そして、土方のことを思うと、やけに饒舌になっていく自分がいる。自分でも興奮しているのがわかった。

「変なやつだろ? でも、超一流の板前なんだ。天下屋の御曹司さ。料理の腕では、僕とはライバル関係にあってさ。まさに一流だろ?」

「ふふん、そうね」

「いいやつだな、しかし」

「そうね。あなたのことを本当に気遣っているみたいね。いい関係だよね、ライバルであり、親友でありって」

親友か。その時になって、僕には土方の行動の理由がわかった。僕を見舞いに来てくれる土方は、僕に対して親友としての想いを抱いていたのだろう。仲間という意識を持っていたのだろう。それに対して、僕はそんな土方の気持ちを察することができなかった。暗く陰険に捉えることしかできなかった。どうやら、僕は土方のライバルになり得ないようだ。人間的には、土方の方に軍配が上がりそうだ。

「そうだな、親友って良いよな」

「そうだよね。私たちも…」

瞬間、黒い何かが僕に飛びかかってきた。恵理香の言葉をさえぎろと言わんばかりに。

「水」

僕は不機嫌そうに水を要求した。

「どうしたの、急に? 忙しいね、笑ったり、機嫌悪くなったり。まるで赤ん坊みたい」赤ん坊みたいと言われても仕方ない。確かに、今の僕は赤ん坊だ。

「恵理香、僕はいつ頃退院できるんだ?」

「すぐよ」

そうか。僕は水をごくりと飲み込んだ。うまい水を飲んでも、心の渇きまで癒せるわけはない。

何日も何日も。天井とにらめっこをしながら暮らした。もっとも、見舞いに来てくれる土方と談笑をしたり、元の調子で話せるようになった町田と銀行の話をしたり。恵理香とも自分たちの関係について触れない限り、おもしろおかしく話すことができた。黒板に文字を書き出す前に必ず指を上下に振る担任の話や、初めて注射したときに、静脈を突き破って刺してしまった話。入院してから、自分の近くにいてくれた人と話すようになった。それが徐々に毎日を楽しくさせていた。ここ何年もまともに人と話をしていなかったからだろう。

もう1つ変わったことがある。あせりやイラつきを感じなくなったのだ。仕事をあきらめたからかも知れない。また、毎日恵理香や土方、町田と過ごしていることで、黒くて素早いあいつは僕に襲いかからなくなった。そのせいもあるだろう。次第に僕は昔の僕に戻っていったのだ。

だが、失った腕のことを思うと、気が重かった。病院を出た瞬間に、僕には失業者というレッテルが貼られる。社会から爪弾きされたカタチになる。それを思うと、悲しかった。病院を出れば、もう2度とこんなにも楽しい生活を送ることはできないだろう。それが悔しくて、泣いてしまう夜もあった。自分に対する怒りでやるせない日々でもあったのだ。

深く落ち込んだ日もあったし、テンションが高くて高くてどうしようもない日もあった。そんな中でも、僕の怪我は段々と癒えていった。足は天井から吊る必要がなくなり、右手も自由に動かせるようになった。後は左手と顔だけだった。

昼頃に目を覚ました日がだった。ベットに腰をかけて、窓の外を見ていた。見慣れた風景に飽きを感じてはいたが、他にやることはない。流れていく雲を見ながら、僕はポカンとしていた。ビュービューと鳴く風だけが耳に入ってくる音だ。僕はその音にも聞き飽きていた。

だが、他の音が僕の耳に飛び込んできたのだ。ガシガシガシと忙しい音が聞こえてくる。何の音かと思い、僕は飛び込んできた音の方に目を向けた。そこでは、道路の補強工事がされていた。アスファルトを固める作業として、先の平べったい機械で地面にアスファルトを押しつけている。その機械が地面を打つ音らしい。音の原因がわかった瞬間に、僕は大きく息を吸い込んだ。変わった音の出現に興味をそそられたのだが、ありきたりの音だったのでがっかりしたのだ。長い入院生活では刺激がなくて、変わったものが欲しくなる。

ガシガシガシという音が響く中、僕はまた空に目をやる。こちらも何も変わらない。青く大きな空と白い雲。時折、名も知らない鳥が空を飛び回るだけ。僕はため息をついて、空を見るのを止めた。病院以上に代わり映えのない世界を覗いていても、余計に退屈になるだけだ。

そう思った瞬間、僕はあることに気付いた。そう、このガシガシガシという音を聞いたのが久しぶりであることに気付いたのだ。日本のどこででも聞ける、この音。それなのに聞くのが久しぶりなのはなぜだろう。考えてみると、これまでの僕の生活にはゆとりがなかったのだ。働きずくめだったり、遊ぶことに夢中だったり。普通に生活をこなしているようで、本当にこなしているだけだったのだ。生活を楽しんでいなかったのだ。だから、土方が見舞いに来ることに疑問を持ったり、恵理香から町田の話を聞くと表情が強ばったりしたのだろう。ただ生活しているだけでは感じられないものがたくさんある。無意識に自分で流してしまっていることもたくさんあるのだ。

今だって、そうかも知れない。枕カバーを見てみる。すると、いつも見慣れた枕カバーにも発見がある。いままでは、枕カバーについて汚いとしか思っていなかった。だが、よく見てみると、この枕カバーはただ汚れているだけではなかった。使い古されているのだ。よく洗濯されてヨレヨレになっているのだ。裏返しにして見てみると、微かに黄ばんだ所もある。僕はこれまで少しも気付かなかった。そうなのだ。意識して生活していなかったことによって、見落としてきたことはたくさんあるのだ。

それに気付いた僕はなんだかとても上機嫌になった。