青春小説「怖くて飛べない!」9

青春小説「怖くて飛べない!」9

ガシガシガシという音が響く中、僕はまた空に目をやる。こちらも何も変わらない。青く大きな空と白い雲。時折、名も知らない鳥が空を飛び回るだけ。僕はため息をついて、空を見るのを止めた。病院以上に代わり映えのない世界を覗いていても、余計に退屈になるだけだ。

そう思った瞬間、僕はあることに気付いた。そう、このガシガシガシという音を聞いたのが久しぶりであることに気付いたのだ。日本のどこででも聞ける、この音。それなのに聞くのが久しぶりなのはなぜだろう。考えてみると、これまでの僕の生活にはゆとりがなかったのだ。働きずくめだったり、遊ぶことに夢中だったり。普通に生活をこなしているようで、本当にこなしているだけだったのだ。生活を楽しんでいなかったのだ。だから、土方が見舞いに来ることに疑問を持ったり、恵理香から町田の話を聞くと表情が強ばったりしたのだろう。ただ生活しているだけでは感じられないものがたくさんある。無意識に自分で流してしまっていることもたくさんあるのだ。

今だって、そうかも知れない。枕カバーを見てみる。すると、いつも見慣れた枕カバーにも発見がある。いままでは、枕カバーについて汚いとしか思っていなかった。だが、よく見てみると、この枕カバーはただ汚れているだけではなかった。使い古されているのだ。よく洗濯されてヨレヨレになっているのだ。裏返しにして見てみると、微かに黄ばんだ所もある。僕はこれまで少しも気付かなかった。そうなのだ。意識して生活していなかったことによって、見落としてきたことはたくさんあるのだ。

それに気付いた僕はなんだかとても上機嫌になった。

その日、夕飯を食べているときに来てくれた恵理香と話していて、僕は恵理香に気付いた。こんなにもキツネ目で色の白い女はいない。そして、恵理香ほど、僕を知っている人間もいない。恵理香ほど、僕にとって可愛い女はいない。僕は恵理香と一緒に中学の頃に戻りたくなった。自分たちが中学生の頃に戻れるならば、僕は恵理香と交際をして、恵理香と一緒に生きただろう。恵理香の悲しみも辛さも、全部全部分かち合うことができただろう。もちろん、恵理香の喜びを容易に僕の喜びとすることもできたはずだ。そう、僕は気付いたのだ。僕にとって、恵理香が結果として一緒にいてくれたことを。

今になって思えば、その瞬間、黒くて素早いアイツは滅んだのだ。恵理香に気付いたことで、僕は白いもやの中に足を踏み入れはしたが、その白いもやは光り輝いていた。眩しいほどに明るかった。自分の気持ちという白いもやの中で、僕は恵理香のいる方向に歩き出したのだ。今までずっと気づかなかったのか、それとも、自分で気づくことに拒否をしていたのか。その時の僕にはわからなかったが、今の僕にははっきりわかる。僕は恵理香を意識することを拒んでいたのだ。恵理香を女と意識することによって、自分の中の恵理香が変わってしまうことを拒んだのだ。しかも、僕は無意識に恵理香を意識することを拒んだのだろう。無意識は怖いものだ。大切なものを見落とさせる。

三月が直前に迫った。僕の怪我もだいぶ癒えてきていた。あと少しで退院できると医者に太鼓判を押されるようになっていた。そして、いよいよ退院の日が決まった。やれやれと思いながら、僕は白衣の似合わない担当医の部屋を出た。前を見ると、廊下の先で、車椅子の少年が必死に車椅子をこいでいた。力んだ表情にはうっすらと赤みさえ浮かんでいる。だが、その表情とは反対に、車椅子自体はあまり動かない。ノロノロと車輪が回転するだけだ。少年は車椅子に乗り慣れていないのであろう。僕はそれ以上その少年を見ないようにした。僕にもああいう時があるのだろう。自分が一生懸命に努力しているのにうまくいかない様子を、僕は誰かに見られたくはない。

僕は退院のことを考えようと試みつつ、少年を視界から外した。松葉杖に寄りかかりながら、僕は頼りない様子で歩く。車椅子の少年にぶつからないようにしながら、僕は松葉杖を動かした。

病室に戻ると、そこには町田と恵理香がいた。ベットの上に、2人とも仲良く並んで座っている。

「邪魔しちゃ悪かったかな?」

わざと軽い声で話しかけた。

「いやいや、安藤を待っていたんだよ。大事な話があるんだ」

町田はピリッと締まった表情で僕の方を見上げた。だが、町田はためらいがちに恵理香の方に顔を向け直した。そしてなにやら恵理香とうなずきあってから、重たげな口を開いた。

「あのな、俺、転勤になったんだ。大阪だってさ。まあ、本社がそっちだから栄転みたいなものだけどな。それでな、ひとりで行くのもどうかなと思って、恵理香を誘ったんだ。それで恵理香と一緒に行くことになったんだ」

「そう、それで」

「あの、それで」

町田はそれ以上なかなか切り出そうとしなかった。業を煮やした恵理香は町田をにらみつけてから僕に言った。

「結婚するの。私と町田。それで、その結婚式に出て欲しいんだけど」

「わかった。それでいつなの、式は?」

僕は素っ気なく答えた。冷静さを装うためだ。僕ははっきりと自分が動揺していることを知っていたのだ。

「来週の日曜日に平安閣で」

「それまでに僕は退院できているのかな? 町田恵理香様?」

おちゃらけた様子で、僕は。