片思い小説「遠い昔の甘さ」4

片思い恋愛小説「遠い昔の甘さ」4

 自分事でもない妻の買い物につき合わされて、その間に街の一角で一服。客観的に僕と由美を見れば、ゆったりした平凡な夫婦だ。静かな二人の午後だ。思わず、僕の頭の中で幸せかな? という疑問が幾度となくわき上がった。それはだれた感傷に似ていたが、僕が浸かるのには十分すぎるほどのぬるま湯だった。

「お待たせ。ねえ、あの店の人、あなたの知り合いなの?」

誰だろう? 僕は首を伸ばして、カウンターの店員を見た。こちらを見て、何やらニヤニヤと笑っている。それは安藤だった。

「ああ、安藤っていう大学の友達。あいつ、この辺でバイトしてるんだな」

「そんな呑気なこと言ってないでよ。知り合いがいるんだったら、知り合いがいるっていいなさいよ。あの人、私のこと見て、最初に『奥さん! 何かお探しですか?』って言ったのよ。こっちは向こうがあんたの友達だって知らないもんだから、適当に『ええ』とか言っちゃったじゃない。変な目で見られたら、どうしよう」

「別に、問題にはならんやろー」

僕は投げ捨てるように由美に言った。気にも留めていないふうに、僕はテコテコと先に歩き出した。はっきり言って、由美と夫婦に見られたことは嬉しかった。都合よく現れた安藤が僕に現実世界での当てはまりを示してくれたのだ。やっぱり、僕たちは似合っているのかもしれない。

 そう思うと、たまらず口笛を吹きたくなる。だが、嬉しがっている様子を由美にはおくびにも見せたくない。だから、気持ちの高揚を隠すためにも、僕は投げ捨てるように由美に言う必要があった。

「でも、あんたの奥さんってイヤね。ああ、ヤダ、ヤダ」

「そこまで言うことないやろ。俺だって、お前の旦那さんの役なんて、まっぴらだ」

思わず、夫婦役を無理矢理にやらねばならないドラマのヒトコマのような台詞を吐いてしまった。かなり恥ずかしい。けれど、憎まれ口を叩くことはなかったかもしれない。実際、由美と夫婦になれたら、どんなにすばらしいことかと思い始めていたからだ。だから、本心を隠すのはどうだろう。無意味なのではないか? けれど、本心を真面目にいうのは恥ずかしい。それに、実際問題難しいことなのだ。本心を口に出すということは。

「って、思うことはそんなにないよ」

だから、僕はさりげなく言ってみるつもりだった。軽く、そして水面に波紋が起きるほどに静かに。だが、その一言は僕の周りでうなるように轟いた。思わず、耳がおかしくなってしまったのかと耳を疑ったほどだった。だが、周りの人はいつもの街を何もないように歩いている。僕の中だけで響いたのだろう。いや、確かに僕の言葉は僕だけではない。きっと由美にも響いたはずだ。その証拠に、由美は返す言葉もなく、唇をきゅっと結んだままだった。

 そしてそれが、少しの間だけでも、僕らを二人だけの違う世界にワープさせた証拠だ。二人だけの世界、静かで互いの声しか届かない世界。本来なら聞こえるはずの年末のざわめきなど、何ひとつ聞こえないほどシーンと静まり返っていた。音を出すことを許されたのが、僕と由美だけのような気がする。けれど、二人の間を漂う空気はいつもの二人の和やかな空気ではなく、不気味なほど生真面目な空気だった。僕の、ひとつ前の言葉をうち消すように言った言葉が、固い静寂を作り出したのだ。もちろん僕の意図とは関係なく。

 結局、僕の言葉はさっきの発言をうち消すというよりは、僕らの関係をより曖昧にしたと言った方が正しい。僕らの世界。それはこれまでずっと曖昧にしてきた世界だ。同性としてつき合っているのか、異性として感じあっているのか。ただの友人なのか、それとも恋しあっているのか。僕は由美のことが好きだ。もちろん、異性としても。けれど、由美を欲しがったことは一度もない。友達として感じているかもしれない由美を裏切るのが恐かったから? それとも、本当に由美が好きではなかったから? それとも。

 だが、絶対に言えることがある。僕は物事を曖昧にしておくことが好きなのだ。ありのままに、そのままにしておくことが好きで好きでたまらないのだ。

 けれども、今の気難しい静けさをそのままにしておいていいのだろうか? それは何か間違っているような気がする。僕が作った生真面目な空気なのだから。絶対に、僕がどうにかしなくてはならない。

「なあ、由美」

僕は思いきって口を開けた。

「ねえ、あれ、あんたの弟じゃない?」

しかし、突然、由美の手が商店街のはずれを指した。由美は前から歩いてくる赤いTシャツの男を指さしたのだ。僕の目がその男をとらえる。それは間違いなく、アホな弟だった。冬の真っ盛りに、Tシャツ一枚で木枯らし吹く街を歩き回るようなアホはアイツしかいない。

「放っていこう」

僕は片手で右目を押さえて、情けないという様子をジェスチャーで現した。フフフと笑って、由美は弟の方に向かって歩き出した。

「こんにちわ。悠君。元気?」

「どうも由美さん。今日もお美しいですね? 兄なんか相手にしていると、時間がもったいないですよ」

弟は丁寧語で人と話す。ただ、話す内容は人を食った内容が多い。だから、僕は由美がいつか弟の言葉に爆発するのではないかと思って、冷や冷やして聞いていた。だが、由美は子供をあやすようにしていて、何を言われても本気には取り合わないようだった。

「ね、兄ちゃん。今日さあ、誕生日なんだけど。何か買って!」

ん。今日は。

「ちょっと待て。お前の誕生日は十月十日だろ? この嘘つき健康優良児めが」

「へへー。誰が、俺の誕生日だって言った? 今日は兄ちゃんの誕生日だろ? だからさあ、誕生日記念に俺に何かプレゼントちょうだい。お金がいいかな?」

わけのわからない理屈をこねるのが、弟のクセだ。結構、その相手をするのは面倒くさいのだ。

「そうね、今日は木田の誕生日だったよね。これで幾つになったのかな? 三十八ぐらいかな?」

「由美、お前なあ、一回死ぬほど殴ったろうか? そりゃあ、確かに俺は老け顔だよ。でもなあ、反町隆史も竹ノ内豊も老け顔だろ? それだったら、そいつらと同じように、俺を扱えよな」

「何言ってるの。反町も竹ノ内も、あんたよりも百倍かっこいいでしょ。足も全然長いし。同じ扱いしろだなんて、せめて足が同じくらい長くなってから言ってよね」

悪かったな。内心、僕はそう思った。けれど、こういう非生産的な言い合いをしていても仕方がない。それに実際、僕は足が短いのだし。

「ハイハイ、そこまで、そこまで。んじゃあね、兄ちゃん。由美さん、またね」

タイガースの野球帽を横かぶりにした弟は誰にも会わなかったかのように、またどこかへ行ってしまった。僕らの間にいつもの和やかな風だけを残して。

 

 もっとも、今思えば、これが弟のアホ面を見た最後だった。葬式の時の僕は、弟を失った悲しみよりもずっと重い憂鬱に乗り移られていて、弟の死に顔を見るどころではなかったからだ。