片思い小説「遠い昔の甘さ」5

片思い恋愛小説「遠い昔の甘さ」5

 商店街の入り口で、由美は荷物を家に置いてくるからと言った。だから、僕らは入り口の大きな門の前で別れた。僕はとりあえず、マンションに戻ることにした。紙屑ぐらいは片づけないといけないなっと思ったからだ。しかし、僕は何を買おうとして、家を出てきたのだろう? 

 黒塗りの重いドアを閉めると、僕は片づいていない部屋に絶望すらした。これを片づけるのかと思うと、ため息が出るほど面倒くさかった。書きかけのレポート用紙やら破り開けたダイレクトメールといった紙ゴミが、そこら中にばらまかれている。洗濯をするときに漂白剤の分量を間違えて、変色してしまったTシャツが丸められて、本棚の上に置いてある。ティッシュはゴミ箱で山のようにうなっているし、銀色の灰皿には吸い殻が隙間なく敷き詰められている。

 はっきり言って、僕でなくとも、この状態を見れば、掃除をする気にはならないだろう。それに、言い訳にしか過ぎないかもしれないが、この部屋はよく見ると、散らかっているようで僕との均整がうまくとれている。もし、この部屋に住んでいるのが反町隆史だったら、この部屋との均整がとれないが、僕とこの散らかった部屋とはうまい具合にマッチしている。そう思うと、僕は安藤のいる薬屋で買った掃除用具を部屋の隅に置いて、落ち着いてタバコを吸い始めることができた。

 二本目のタバコに火をつけようと思ったとき、けたたましく携帯電話が鳴った。

「あい、もしもし。木田ですけど」

しかし、電話は応答しなかった。ただガッチャガッチャという金属音が聞こえるだけだった。

「もしもし」

声を荒げて、もう一度声をかけてみる。しかし、相変わらずだ。業を煮やした僕は電話を切った。悪質ないたずらだろう。僕は電話の主が何を考えて、こんなにも金のかかる嫌がらせをするのだろうかと思った。首を傾げるばかりである。タバコの火をもみ消して、勢い、僕は立ち上がった。特に何かをしようと思って、立ち上がったわけではない。説明するとすれば、いたずら電話に腹を立てて立ち上がってしまったのであろう。立腹、立脚。しゃれにもならない。

 せっかく立ち上がったのだからという感じで、僕はトイレに行った。戻ってくると、再び電話が鳴っている。

「もしもし、木田ですが」

またもや金属音だ。なんだ、こいつは。

「そんなことしてもつまらんやろー? 楽しいか、人にそんなことして。このまま電話をかけっぱなしにするぞ。どんどん金かかるぞ。いいのか、それでも」

返事はなく、僕の声が電話越しに帰ってくる。説得しようとした行為が意味のない行為だと気づいたのはその時だった。

 始めて声が聞こえたのだ。もっとも、遠い声だった。しかし、その声の主が由美であることを認識するには十分すぎるほどの音量だった。由美のただいまーと叫ぶ声が聞こえたのだ。

 おそらく、こういうことだろう。携帯をバックの中に入れて、何かの拍子で僕にかかってしまったのだろう。そして、由美はそれに気づかずにテコテコと歩く。鞄の中で、携帯がいろいろなものに当たって、金属音を発する。金属音は由美が歩く度にその振動で鳴っていたのだ。

 しかし、由美も相変わらず、おっちょこちょいだ。そう思うと、途端に笑いがこみ上げてきた。そうだ、おっちょこちょいの由美らしいや。僕の頬が横に広がるのがわかる。僕は嬉しくなったのだ。なぜだかはわからない。また、わからなくてもいいことかもしれないから、僕は考える気はない。

 そう、そのおっちょこちょいの由美はこれから家に来るのだ。その前に、この絶望するほどに散らかっている部屋を片づけないと。僕は足の踏み所もない部屋を駆けづりまわった。東京都指定のゴミ袋を片手に、軽い腰をかがめながら。少しでも部屋がきれいに見えるようにと、僕は細かいほこりから髪の毛一本まで拾いに拾った。まるで、砂金取りをするように細かく気を使いながら、部屋を掃除していく。

 由美のために、自分の部屋を住み始めの頃のようにする。奇妙なことのように思うが、そう思わなければ、僕は部屋の掃除をしないだろう。誰かのためと思わなければできない。けれど、それは、誰かのために何かをしようと思う気持ちと髪の毛一本ぐらいしか差はないのではないか。誰かのためでないと、何もできないということは他者依存の激しいことだが、誰かのためにと思わなければできないこともあるのだ。

 掃除を続ける僕の中では、浮かんでは消える水泡のような考えを弄んでいた。部屋がきれいになるまで。水泡のような考えが浮かび上がってくるのを止めるまで。僕一人の部屋で、淋しく微笑みながら、僕は意味もなく走り続けるハツカネズミのように働いた。

 携帯が再び高々と鳴る。

「ねえ、木田の部屋って、何号室?」

「402だけど。もう着くの?」

「うん、もうすぐ着くと思うよ。それじゃあ、あとで」

たった二言の会話で、由美からの電話は切れた。今度は不思議と淋しくなった。さっきの無言電話は僕を嬉しがらせ、今の二言の会話は僕の気持ちを沈ませる。まあいい。すぐに由美が来てくれるのだから。