片思い小説「遠い昔の甘さ」6

片思い恋愛小説「遠い昔の甘さ」6

 掃除を続ける僕の中では、浮かんでは消える水泡のような考えを弄んでいた。部屋がきれいになるまで。水泡のような考えが浮かび上がってくるのを止めるまで。僕一人の部屋で、淋しく微笑みながら、僕は意味もなく走り続けるハツカネズミのように働いた。

 携帯が再び高々と鳴る。

「ねえ、木田の部屋って、何号室?」

「402だけど。もう着くの?」

「うん、もうすぐ着くと思うよ。それじゃあ、あとで」

たった二言の会話で、由美からの電話は切れた。今度は不思議と淋しくなった。さっきの無言電話は僕を嬉しがらせ、今の二言の会話は僕の気持ちを沈ませる。まあいい。すぐに由美が来てくれるのだから。

 二分後。僕はドアを大きく開けて、由美を部屋の中に入れた。片づいているじゃないと言いながら、由美は大きなビニール袋を部屋の中央のこたつに置いた。ドシンという音とともに、何かが壊れたような気がした。

「ねえ、何を作ってくれるの?」

「由美的にはー、スープなんかいいかなーっておもってー」

「はいはい、年喰った人は女子高生の真似なんか止めなさいって」

ムッとしたような顔で、由美は黙ったまま、何もない台所に立った。僕は後ろから由美の手さばきを見ようと思って、由美の後ろに立つ。

「もー、うざいなー。黙って座ってなさいよ。できるものもできないじゃないの」

そういう言い方しなくてもいいじゃないか。僕はそういう言葉を胸にしまって、おとなしくこたつに引っ返した。

 料理をしている由美の後ろ姿は妙にありふれたもののように感じる。当たり前に、由美が僕の台所に立っているような気がする。僕らが夫婦のような錯覚に陥りそうだ。もちろん、それは僕の勝手な感傷だ。けれど、エプロンの結び目をぼんやり見ていると、それを勝手な感傷にしたくないという思いがこみ上げてくる。由美をお嫁さんにしたい。そんな思いが僕の体中を走る。それはいけないことなのか、よいことなのか。はっきりと僕にはわからない。ただ、今の由美を。僕が求めているのは本当だ。台所で当たり前のように料理を作ってくれて、鼻歌を歌いながら箸や料理を運んでくれる由美がたまらなく必要に思えてくる。山の天気のようにすぐに変わる気まぐれではなく、切り立った断崖に咲くスミレ草のように、僕にとっては永遠に美しく孤独であって欲しいものだ。

 ざらつきのある白いまな板で、白菜が切られているようだ。由美の背中から、由美の幅を溢れた白菜が白い顔を出している。包丁のリズムはシャキ、シャキと規則正しい。結構、うまくなったものだ。由美の背中が頼もしく思えてくる。いつもの白菜よりもずっと粋がよいようだ。

「ねえ、ボールとかないの?」

突然後ろを振り返って、由美が声をかけてくる。

「ボール。ボールは、そう、そこの棚にあると思うんだけど」

ハッとして、僕は答えた。じっと見ていたことが、由美にばれたら由美は何というだろう。絶対、僕に挑戦的な言葉を投げかけてくるだろう。

「ないよ、ボールなんて」

怒ったように由美は言う。おかしなことだと思って、僕は由美の厨房に入り込む。確かに、頭上の棚にはボールの影も形もない。ほこりをかぶった鉄板があるだけだった。そういえば、棚を掃除するのを忘れていた。由美に格好悪いところを見せてしまったのが、たまらなく後悔された。だが、そんなことを思っている暇はない。ボールを探さなければ。僕はボールの居場所を思いだそうとした。懸命に頭の中をひっくり返す。すると、プッと記憶の欠片が浮かび上がってくる。ボールは押入に放り込んだままだ。邪魔だから。それだけの理由で、何気なく押入の中にボールを放り込んだことを思い出した。

「ボール、絶対必要?」

「ないなら、ないでもいいけど」

ボールがないという嘘の方がいいような気がする。あるにはあるが、押入の中にあるという真実よりもずっと体裁がいい。けれど、それは正しいのだろうか?

 世の中には、どうでもいいことだけれど正しい答えの出ないことがたくさんある。僕ははっきりとそれを感じた。

 由美は薄底の鍋をボールの代わりに野菜置き場として使い、それをこたつに運んできた。そして、次にはあたたかそうなスープを。おいしそうな匂いが狭い部屋の中を駆け回る。部屋の中を漂う冷気を矢継ぎ早に吸収していく。

 その匂いに、僕は由美の成長を見たような気がした。結構、これが笑いを呼ぶのだ。もちろん、おかしくて笑うのではない。歩きを覚えた赤ん坊を見ていて、不意にわき上がってくる笑いと同じで、微笑ましいから笑えるというのと同じだ。人の成長を見ることは嬉しくて、楽しいことなのだ。特に、成長していく人が大好きな人であった場合はこれ以上もない喜びなのだ。

 銀色お玉に、紺の箸。それに割り箸を持ってきて、由美はやっとこたつの中に足を入れた。どうぞと言わんばかりに、僕の顔を見ている。

「由美、ありがとう。んじゃあ、早速いただきます」

「どうぞ。でも、ちょっと待ってね。写真取るから。うまくできた証拠に」