片思い小説「遠い昔の甘さ」7

片思い恋愛小説「遠い昔の甘さ」7

 銀色お玉に、紺の箸。それに割り箸を持ってきて、由美はやっとこたつの中に足を入れた。どうぞと言わんばかりに、僕の顔を見ている。

「由美、ありがとう。んじゃあ、早速いただきます」

「どうぞ。でも、ちょっと待ってね。写真取るから。うまくできた証拠に」

写真? 僕は首を傾げるというよりも、転けてしまいそうだった。ひょっとしたら、由美の予想以上にうまくいったのかもしれない。由美は由美で、自分の赤い鞄から使い捨てカメラを出して、湯気のゆらゆらと立つ鍋の上からファインダーを下ろした。記念の一枚か。その中に僕が入れたらいいのになと思う。もっとも、ゾクゾクと出る湯気によってレンズが曇ってしまい、この鍋がきちんと映っているかどうかはわかったものではない。

 カメラに収められた由美の鍋はふっくら飴色だった。ゆらゆらと立つ湯気を通して、鍋はほのかな照りと輝きを発していた。

 しかし、中には何が入っているのだろう。具がネギと白菜しか見えないのが、やや不安だった。だが、おいしそうな匂いが僕の不安をうち消すのには、格好の材料だった。それに、僕のお腹はさっきからキュウキュウと鳴り続けていた。食欲。不安など、若く旺盛な食欲の前では無意味なものなのかもしれない。それは食欲だけでなく、性欲、睡眠欲に対してもそうなのだろうか? 僕はそんなことを思いめぐらせながら、紺の箸を飴色の鍋の中にくぐらせた。

 白い白菜と、やや緑がかったネギを取る。そして、得体の知れない白い物体をすくい上げた。

「ねえ、この白いのは? 何かフワフワしていて、ムッチャやわらかいけど」

「それ? ハンペンじゃない。ハンペンも知らないの」

誰だってハンペンぐらいは知っているだろう。そう言い返したいのをぐっとこらえて、僕は皿の中に取ったハンペンに、はやくも箸をつけた。クシャッという音を出しながら、ふくよかなハンペンを半分に割る。熱で震えているのか、それとも僕の手が震えているせいで震えているのか。ハンペンは食べられることを嫌がっているかのように、プルプルと震えていた。しかし震えに構うことなく、僕は小刻みに震え続けるハンペンを口の中に押し込んだ。そして、両の顎でそのハンペンを噛んだ。噛んだ途端に、口の中一杯に鍋の汁が染み込んでいく。コクがあって、鰹だしの効いた味が僕の舌をうならせる。

「うまいじゃない。オイシーよ」

由美は嬉しいあまりの興奮で、ウンウンと何度も肯く。

「ねえ、これで私の腕もわかってもらえました? すごいでしょ」

「僕は由美の腕を認めるよ。コックさんになっても通じるんじゃない」

「大げさだー」

そう言いながら、由美は自分の鍋の出来に感心しているようだ。溢れた喜びが由美を圧倒して、由美の頬をゆるめた。

「そうだ、ビールでも飲もうか? 冷えているんだよね、ビール」

台所の大きさにはふさわしくない冷蔵庫から、霜のへばりついた缶ビールを二本取ってくる。よく冷えているので、手で触るのも痛い。僕らは缶ビールを威勢良く開けて、今日初めての乾杯をした。冷えたビールをぐびぐびと喉に通して、そして、僕は青みのあるネギを思いっきり噛んだ。少しだけほろ苦い。

 湯気が立っているからなのか、はっきりとは由美の顔が見えない。けれど、僕には、手に取るように由美が喜んでいるのがわかった。踊っている由美の声をしっかりと聞くことができるからだ。楽しそうにしている由美を見ることが僕には幸せすぎて、どうしても笑いが止まらなくなる。気持ちがすこぶるよい。もしも、数え切れないほどの不幸が襲ってきても、今の僕には関係ないかもしれない。笑顔の由美が近くにいるから。大好きな由美が僕の近くにいてくれるから。こたつの中で足を伸ばせば、由美にすぐぶつかる。それほど今、由美は僕の近くにいてくれているから。

 鍋のそこが覗けないほどのおいしい飴色の汁。今度は、お玉でその汁を取る。そこの深い器にたっぷりと注ぐと、やさしく甘い香りが僕の側にやってきた。僕は香の源をススッ一気にと飲み込む。口中にうま味と熱気が広がっていくのがわかる。

「どう、このスープは?」

テレビゲームに熱中する子供のように、由美は僕の方に輝いた目をむけてくる。大きく白い眼光が上がりっぱなし頬の僕をとらえている。

「うん。このスープがいいよね。すごい腰があるよ」

「何言ってるの? 味なんかわからないくせに」

弾んだ由美の声が笑い声に変わったとき、僕もつられて声を出して笑ってしまう。厳しい冬の部屋では、幸福そうな笑い声とやさしく甘い香がちょうど良い具合にブレンドされている。

 もう、40分ぐらい経っただろうか。僕らはダラダラと鍋をつついている。時折、僕はオイシーと叫び、由美に黙れっと言われながら。冷めていく鍋の飴色が段々と味を変えていくが、僕はいつまでもこの味のままであって欲しかった。このまま、ずっと。僕はこのままずっと、この鍋を食べていたかった。由美との時間が少しでも流れて欲しくなかった。

 缶を激しくぶつけて、にぎやかな音の乾杯をしたくなった。

「ねえ、二度目の乾杯しない?」